山口素堂も馬場美濃守信房は白州で生まれて居ない、歴史誤伝です。
芭蕉と共に活躍した山口素堂は山梨県の人ではない。文化13年の甲斐国志に記載されて以来全く違う人物像を背負わされてしまった。
今でもネットで白州町の山口にある昭和時代に建立された山口素堂の石碑は多くの歴史フアンが紹介されている。また同じ山口国堺にあったドライブインの代議士書による「目には青葉山ほととぎす初鰹」金丸信元代議士の筆による、大型石版を白州道の駅に移転して現存している。
私は数十年素堂を調べてきたが、山梨県の歴史学者は殆ど誤った素堂の生涯を綴っている。山梨県では誤った歴史書や著が多く読む人・見た人を混乱させる。
山口素堂や馬場美濃守信房にしても、適当な系図や家系書それに研究者によって全く違う人物になっている。現在も訂正される事無く、辞書や辞典に大きく記載され、誤伝が真説に様変わり。
素堂にとって山梨は妻の故郷『甲山記行』であり、白州町は史実で綴れば住んで形跡はありません。また甲府の山口家も墓も全く関係は見えません。白州は白須甲斐守の知行していた所で、白秋保育園の設置飛行機場にある馬場美濃の標識はこれも間違いで白須家のものです。
皆さんも歴史を探索するときは、石碑や墓石それに後世書かれた書はそのまま参考にすると大きな間違いを他人に伝える事になります。
全く馬場美濃守の面影が見えない画像です。恵林寺宝物館明治時代作成 想像画
山口素堂木造模写像 『連俳睦百韻』
素堂直筆
山口素堂も馬場美濃守信房は白州で生まれて居ない、歴史誤伝です。
芭蕉と共に活躍した山口素堂は山梨県の人ではない。文化13年の甲斐国志に記載されて以来全く違う人物像を背負わされてしまった。
今でもネットで白州町の山口にある昭和時代に建立された山口素堂の石碑は多くの歴史フアンが紹介されている。また同じ山口国堺にあったドライブインの代議士書による「目には青葉山ほととぎす初鰹」金丸信元代議士の筆による、大型石版を白州道の駅に移転して現存している。
私は数十年素堂を調べてきたが、山梨県の歴史学者は殆ど誤った素堂の生涯を綴っている。山梨県では誤った歴史書や著が多く読む人・見た人を混乱させる。
山口素堂や馬場美濃守信房にしても、適当な系図や家系書それに研究者によって全く違う人物になっている。現在も訂正される事無く、辞書や辞典に大きく記載され、誤伝が真説に様変わり。
素堂にとって山梨は妻の故郷『甲山記行』であり、白州町は史実で綴れば住んで形跡はありません。また甲府の山口家も墓も全く関係は見えません。白州は白須甲斐守の知行していた所で、白秋保育園の設置飛行機場にある馬場美濃の標識はこれも間違いで白須家のものです。
皆さんも歴史を探索するときは、石碑や墓石それに後世書かれた書はそのまま参考にすると大きな間違いを他人に伝える事になります。
全く馬場美濃守の面影が見えない画像です。恵林寺宝物館明治時代作成 想像画
山口素堂木造模写像 『連俳睦百韻』
素堂直筆
山口素堂も馬場美濃守信房は白州で生まれて居ない、歴史誤伝です。
芭蕉と共に活躍した山口素堂は山梨県の人ではない。文化13年の甲斐国志に記載されて以来全く違う人物像を背負わされてしまった。
今でもネットで白州町の山口にある昭和時代に建立された山口素堂の石碑は多くの歴史フアンが紹介されている。また同じ山口国堺にあったドライブインの代議士書による「目には青葉山ほととぎす初鰹」金丸信元代議士の筆による、大型石版を白州道の駅に移転して現存している。
私は数十年素堂を調べてきたが、山梨県の歴史学者は殆ど誤った素堂の生涯を綴っている。山梨県では誤った歴史書や著が多く読む人・見た人を混乱させる。
山口素堂や馬場美濃守信房にしても、適当な系図や家系書それに研究者によって全く違う人物になっている。現在も訂正される事無く、辞書や辞典に大きく記載され、誤伝が真説に様変わり。
素堂にとって山梨は妻の故郷『甲山記行』であり、白州町は史実で綴れば住んで形跡はありません。また甲府の山口家も墓も全く関係は見えません。白州は白須甲斐守の知行していた所で、白秋保育園の設置飛行機場にある馬場美濃の標識はこれも間違いで白須家のものです。
皆さんも歴史を探索するときは、石碑や墓石それに後世書かれた書はそのまま参考にすると大きな間違いを他人に伝える事になります。
全く馬場美濃守の面影が見えない画像です。恵林寺宝物館明治時代作成 想像画
山口素堂木造模写像 『連俳睦百韻』
素堂直筆
北杜市の偉人 輿石守郷 長坂町、後に甲府愛宕町へ
輿石守郷 長坂町、後に甲府愛宕町へ
天保八年二月大八田に山本甚五左衛門の二男として生まれる。建岡神社神官輿石森吉に子供がなかったので養子になる。幼時は亀之助と呼ばれていたが、守郷と改め又「岡廼舎」と号した。堀秀成、落合直澄について国学、短歌を学ぶ。明治八年国幣中社の一の宮浅間神社の主典となり、十八年禰宜に任じ、後甲府市大田町の稲積神社の神官並びに山梨神道分局長、皇典講究所山梨所長その他の要職につき、三十九年大教正となる。三十三年山梨裁縫学校(現湯田高等学校)設立の際には推されて校長となり同校の発展に尽力した。
守郷は日本の古典研究および本県短歌の隆盛に貢献する。
守郷は短歌の創作において優れていた。
各種の市川文書 山本勘助は一枚の文書で歴史に登場した
参考 山梨県史 中世2 県外文書(山)(長)-長野 (東)-東京都
参考 信濃史料(信)
番号 |
書名・書状名 |
宛先 所蔵 |
和暦 記事表記 |
西暦 備考 |
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吾妻鏡 射手 |
市川四郎義胤 |
正治 2年 9月 2日 |
1120 |
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市川五郎行重 |
建仁 2年 正月 3日 |
1202 |
|
|
市川別当五郎 (行重) |
建仁 3年 9月 2日 |
1203 |
|
|
吾妻鏡 射手 |
市川五郎 |
建暦 元年 正月19日 |
1211 |
|
吾妻鏡 射手 |
市川五郎 |
建暦 2年 正月11日 |
1212 |
|
市川六郎別当跡 市川庄司跡 |
建長 2年 3月 1日 |
1250 |
|
|
市河文書 |
市河盛房 |
元亨 元年10月14日 |
1321 |
|
市河文書 |
市河経助 |
元弘 3年 6月 7日 |
1333 |
|
市河文書 |
市河助房 |
元弘 3年 6月 7日 |
1333 |
|
市河文書 |
市河助房 |
建武 2年 6月 |
1335 |
|
市河文書 |
市河親宗 |
建武 2年 8月 |
1335 |
|
市河文書 |
市河倫房 |
建武 2年10月 |
1335 |
山 |
市河家文書 市河経助軍忠状
|
本間美術館蔵 市河文書 |
観応 2年 3月 信濃国市河十郎左衛門尉経助軍忠事 |
1351 |
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市河文書 市河頼房代泰房軍忠状
|
本間美術館蔵 市河文書 |
観応 2年 3月 信濃国市河松王丸代甥孫三郎泰房軍忠事 |
1351 |
|
市河文書 |
市河頼房 |
応安 元年 |
1368 |
|
市河文書 |
市河頼房 |
至徳 4年 9月 |
1387 |
|
市河文書 |
市河興仙 |
応永 7年 4月21日 |
1400 |
|
市河文書 |
市河性幸代 |
応永11年11月 |
1414 |
|
市川文書 |
市川新次郎 (義房) |
応永30年 7月10日 |
1423 |
塩山市 史 |
向嶽寺文書 市川次郎右衛門 |
寄進状 |
寛正 3年 7月24日 上井尻内庵領寄進 |
1462 |
山 長
|
市川家文書 (北佐久郡浅科) 武田晴信書状写 |