シーボルト 江戸滞在 日本医者模様
『
シーボルト 江戸滞在
『シーボルト 江戸参府紀行』
初版第1刷発行 1979年7月15日
訳者 斎藤 信 さいとう まこと
東洋文庫87 発行者 下中邦彦
株式会社平凡社
斎藤 信氏略歴
明治44年東京都生
東京大学文学部独文科卒(昭12)
名古屋市立大学名誉教授。
現職(著 当時)
名古屋保健衛生大学教授。
蘭学資料研究会会員。
専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。
主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。
主論文「稲村三伯研究」など。
一部加筆 山梨県歴史文学館
概 要
・・上席の検使の公使訪問・中津侯の来訪
・・ヨーロッパのダンスについての彼の批評
・・日本の大名の家族生活
・・日本の医者
・・最上徳内
・・樺太海岸での犬の使用
・・船員に対する健康覚え書
・・アイヌの習について
・・将軍の医師来訪
・・中津侯の訪問
・・眼の解剖に関する講義
・・地震
・・種痘を導入する計画
・・将軍に拝謁・拝謁の儀式
・・江戸城の記述
・・江戸
・・国民的祝祭
・・消防施設
・・江戸於ける贅沢と貧困
四月十一日 [旧暦三月五日]
到着直後、旅行中我々に同行してきた上検使は他の二人の上検使および勘定方を伴い来訪、江戸在勤長崎奉行の名
において使節に歓迎の意を表した。
われわれはこの人たちを丁重に迎え入れ、リキュールや砂糖づけの果物を出してもてなした。これはいわゆる慣例である。
将軍の侍医やわれわれを品川まで出迎えてくれたオランダ人を崇拝する連中は、面会を求めたが番所衆はそれを許さず、ただ名刺を差し出しただけであった。
戯れにウィルヘルムス・ボメニクスと呼ばれる桂川甫賢、さらに中津侯の家臣でピーテル・ファン・デル・ストルプ
という人、つぎは奥平大膳大夫の家臣で神谷源内〔神谷はファン・デル・ストルプと同一人〕、商人のフレデリック・ファン・ギルペン、最後に医師大槻玄沢(Otsuki Gentoku)であった。大部分の人はオランダ語を話したり聞きわけたりした。
また江戸滞在の才四郎は妻を同伴して訪ねてきた。
町奉行と外国人接待係は使節一行の到着の通知を受け、これに対し祝意を表する旨が、使節に報告され中津侯も晩には来られるという連絡があった。
それゆえ万事ヨーロッパ流に侯をお迎えする準備をととのえた。彼は三〇年来の友であるオランダ人と一度親しく知り合いになるために、隠居していた。
そうしなければ、大名がわれわれと親しい関係を結ぶことはできないからである。
われわれは夜の時間を非常に楽しく、全くくつろいだ態度でこのオランダ人の愛好者と過ごした。側近ピーテル・ファン・デル・ホルプ(?)、幕府の御用菓子屋で、中津侯 お気に入りのファン・ギュル。ヘン・侍臣カイト。各人は非常にうまくめいめいの役を演じたので、私は堪えていることができず、フランス語で、
「これは私が今まで見たことのない独創的な喜劇だ」と使節に耳うちした。
読者はこれらの日本人をご想像いただきたい。すべてオランダ風なものに身も心もうちこみ、あるいは交互に、あるいはわれわれ相手に破格なオランダ語で話しあい、例の肥った腰巾着氏の高笑い、きれいに剃った頭、歯のぬけたかすれた声のファン・ギュルペンの、愛想はよいが緊張して操る対話、こういうものが好奇心から打ち解けた気特になった侯の真面目さと溶け合って興味深い一団となり、われわれ自身も百年前の流行から採った間の抜けた服装をして、傍に腰掛けていた。
一方では、お付きで、オランダ語が非常にうまく、たいへん如才のない男が、殿の良い指南役をつとめたけれども
……この場面は終始とてもおかしな効果を発揮せずにはいなかった。
それからこの愛好者をお迎えするために、いわばヨーロッパの学術の博物館のように、いろいろな器械類や書籍などを陳列して置いたわれわれの部屋に来られた。
とくに侯の気に入られたのは私の小型ピアノであったが、またクロノメーター、顕微鏡、その他の燕具にも注目された。侯はたいてい全てのものをすでにご承知で、いろいろな自分の時計を出してわれわれを驚かせたが、その中のひとつ、文字板が十進法で書いてあり、金属製の調節装置を備え、そのうえ寒暖計などもついていたのがあって、われわれを喜ばせた。
侯は差し上げた飲食物をおいしそうに口にされ、夜更けてからやっと帰途についた。
*1:ここに脚注を書きます