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「デメリットのあるところにこそ、ビジネスチャンスがある」 小倉昌男 (ヤマト運輸の「宅急便」サービスの生みの親)

「デメリットのあるところにこそ、ビジネスチャンスがある」

小倉昌男 (ヤマト運輸の「宅急便」サービスの生みの親)

1924~2005

 

小倉昌男は東京生まれ。昭和二二(一九四七)年に東京大学卒業後、父の経営する大和運輸(現在のヤマト運輸)に入社し、昭和四六年に社長に就任した。しかし、新社長を待っていたのは、オイルショック後に運輸業界を襲った不況だった。

そこで小倉は、大企業との契約をすべて解消し、個人向けの宅配事業へ乗り出すことにした。当時、荷物の宅配は主に国鉄が取り扱っていたが、発送から到着までI〇日近くかかるのが普通だった。当然、個人向け運送業などあり得ず「絶対に儲からない」というのが定説となっていた。そのため、小倉が「個人向けの宅配事業に乗りだす」と言い始めた

ときには「あいつの考えはおかしくなった」といわれた。

そのとき小冊は「デメリットのあるところにこそ、ビジネスのチャンスがある」

ときっぱり言い切り、個人向けのサービスをスタートしたのである。

当初、関東一円を対象にして始まった個人向け宅配役は大当りし、当初、年間二〇万個程度と考えていた取扱件数は三年目でなんと一〇〇〇万個に達した。

そして、四年目にはサービスエリアを全国に拡大し、みごと大和運輸を危機から救った。だが、順風満帆だったわけではない。宅配役事業を拡大する過程にはさまざまな障害があった。なかでも最大の障害となったのは、サービスエリアを全国に広げることに運輸省(現在の国土交通省)が難色を示しかことであった。当時、運輸業の免許は都道府県単位で交付されていて、全国に配送ネットワークを作ることなど想定していなかったのだ。小倉は「前例のないものは許可できない」と杓子定規に語る役人たちと戦い、苦心の末に全国一律サービスを実現したのである。普通の経営者なら、デメリットのあるところに近づこうとはしないだろう。だが、それではビジネスチャンスは生まれない。人が近づかないからこそチャンスがあるということを小倉は数えてくれている。

シーボルト 江戸滞在 日本医者模様

*1シーボルト 江戸滞在

 

シーボルト 江戸滞在

 

シーボルト  江戸参府紀行』

 

  初版第1刷発行 1979年7月15日

  訳者 斎藤 信 さいとう まこと

  東洋文庫87 発行者 下中邦彦

 

  株式会社平凡社

  

 斎藤 信氏略歴

  明治44年東京都生

  東京大学文学部独文科卒(昭12)

  名古屋市立大学名誉教授。

  現職(著 当時) 

  名古屋保健衛生大学教授。

蘭学資料研究会会員。

  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。

  主著『DEUTSCH FUR STUDENTEN』。

  主論文「稲村三伯研究」など。

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 

 

概 要 

 

・・上席の検使の公使訪問・中津侯の来訪

・・ヨーロッパのダンスについての彼の批評

・・日本の大名の家族生活

・・日本の医者

  ・・最上徳内

・・樺太海岸での犬の使用

・・船員に対する健康覚え書

・・アイヌの習について

・・将軍の医師来訪

・・中津侯の訪問

・・眼の解剖に関する講義

・・地震

・・種痘を導入する計画

・・将軍に拝謁・拝謁の儀式

・・江戸城の記述

・・江戸

・・国民的祝祭

・・消防施設

・・江戸於ける贅沢と貧困

 

四月十一日 [旧暦三月五日]

 

 到着直後、旅行中我々に同行してきた上検使は他の二人の上検使および勘定方を伴い来訪、江戸在勤長崎奉行の名

において使節に歓迎の意を表した。

われわれはこの人たちを丁重に迎え入れ、リキュールや砂糖づけの果物を出してもてなした。これはいわゆる慣例である。

将軍の侍医やわれわれを品川まで出迎えてくれたオランダ人を崇拝する連中は、面会を求めたが番所衆はそれを許さず、ただ名刺を差し出しただけであった。

戯れにウィルヘルムス・ボメニクスと呼ばれる桂川甫賢、さらに中津侯の家臣でピーテル・ファン・デル・ストルプ

という人、つぎは奥平大大夫の家臣で神谷源内〔神谷はファン・デル・ストルプと同一人〕、商人のフレデリック・ファン・ギルペン、最後に医師大槻玄沢(Otsuki Gentoku)であった。大部分の人はオランダ語を話したり聞きわけたりした。

また江戸滞在の才四郎は妻を同伴して訪ねてきた。

町奉行と外国人接待係は使節一行の到着の通知を受け、これに対し祝意を表する旨が、使節に報告され中津侯も晩には来られるという連絡があった。

それゆえ万事ヨーロッパ流に侯をお迎えする準備をととのえた。彼は三〇年来の友であるオランダ人と一度親しく知り合いになるために、隠居していた。

 そうしなければ、大名がわれわれと親しい関係を結ぶことはできないからである。

われわれは夜の時間を非常に楽しく、全くくつろいだ態度でこのオランダ人の愛好者と過ごした。側近ピーテル・ファン・デル・ホルプ(?)、幕府の御用菓子屋で、中津侯  お気に入りのファン・ギュル。ヘン・侍臣カイト。各人は非常にうまくめいめいの役を演じたので、私は堪えていることができず、フランス語で、

「これは私が今まで見たことのない独創的な喜劇だ」と使節に耳うちした。

読者はこれらの日本人をご想像いただきたい。すべてオランダ風なものに身も心もうちこみ、あるいは交互に、あるいはわれわれ相手に破格なオランダ語で話しあい、例の肥った腰巾着氏の高笑い、きれいに剃った頭、歯のぬけたかすれた声のファン・ギュルペンの、愛想はよいが緊張して操る対話、こういうものが好奇心から打ち解けた気特になった侯の真面目さと溶け合って興味深い一団となり、われわれ自身も百年前の流行から採った間の抜けた服装をして、傍に腰掛けていた。

一方では、お付きで、オランダ語が非常にうまく、たいへん如才のない男が、殿の良い指南役をつとめたけれども

……この場面は終始とてもおかしな効果を発揮せずにはいなかった。

それからこの愛好者をお迎えするために、いわばヨーロッパの学術の博物館のように、いろいろな器械類や書籍などを陳列して置いたわれわれの部屋に来られた。

とくに侯の気に入られたのは私の小型ピアノであったが、またクロノメーター、顕微鏡、その他の燕具にも注目された。侯はたいてい全てのものをすでにご承知で、いろいろな自分の時計を出してわれわれを驚かせたが、その中のひとつ、文字板が十進法で書いてあり、金属製の調節装置を備え、そのうえ寒暖計などもついていたのがあって、われわれを喜ばせた。

侯は差し上げた飲食物をおいしそうに口にされ、夜更けてからやっと帰途についた。

*1:ここに脚注を書きます

宮本武蔵 の祖先は甲斐 『甲斐国志』巻之百二 士庶の部 文化十二年

宮本武蔵 甲斐国志』巻之百二 士庶の部 文化十二年

 

〈読み下し〉

 

本州(甲斐)ノ士、宮本源内忠秀ト云ウ者ノ後ナリト云ウ。

 

武蔵ハ剣術ヲ以テ栄名ヲ施セリ。

甞テ江戸ニ在リテ、豊洲(大分)小倉ニ招カレ小笠原将監忠貞ニ仕エル。

 

『武将感状記』ニ云ウ、

始メ細川越中守忠利ニ仕エタ。

小倉ニ赴ク時、長州下関ニ於イテ岸流ト云ウ

撃剣堪能ノ士ニ出会イ、互イニソノ術ヲ誇リ、

仕合シテ遂ニ岸流(佐々木小次郎)ヲ打チ殺セシ由ヲ載ス。

武蔵ハ両刀ヲ用イ、

長二尺五寸(75.76cm)、

短壹尺八寸(54.5cm)ナリ。

 

世ニ武蔵流ト称ス。

 

本州素ヨリ剣客多シ、一ノ宮佐太夫照信ハ「一ノ宮流」ト云ウ。

榎下六左衛門森清ハ大石和筋ニ記ス。

弦間八兵衛正吉ハ弓術ニ師ナリ。中郡筋ニ記セリ。

皆一流を興シタリ。西村丹波守忠次、一ノ井六兵衛至政、

共に慶長・元和・寛永頃ノ人ナリ。鉄砲ノ伝書ヲ蔵スル者往々見エタリ。

 

 

素道 『甲斐国志』巻之百二 士庶の部

 

素道 山口官兵衛ト云。姓ハ源名ハ信章、字ハ子晋、

一云公商。其先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス。

因為氏後移居府中魚町、家頗ル富ミ、時人山口殿ト称ス。

信章ハ寛永十九年壬午五月五日生ル。故ニ重五郎ヲ童名トス、

長シテ市右衛門と更ム、蓋シ家名ナリ。

自少小四方ノ志アリ。

屡々江戸ニ往還シテ、受章句於林春斎、亦遊‐歴京都学、

書於持明院家、和歌於清水谷家,

連歌ハ再昌法印北村季吟ヲ師トス。

松尾宗房ト同門ナリ。

茶ハ今日庵宗旦ノ門人ナリ。

俳諧ヲ好ミテ宗因 号梅翁大阪人 

信徳伊藤氏京都人等ヲ友トシ仮ニ来雪ト號ㇲ。

亦號今日庵蓋宗丹所授カ。

遂ニ弟ニ家産ヲ譲リ、使襲称市右衛門自改名官兵衛、

時ニ甲府殿ノ御代官櫻井孫兵衛政能ト云者能ク其能ヲ知リ、

頻ニ招キ為寮属居ルコト数年、

致仕シテ寓東叡山下専ラ以儒售ル、

人見友元竹洞ヲ学友トシ、諸藩ニ講ジ詩歌ヲ事トス、

傍ラ茶・香・聯俳・演劇・平家等ニ及ベリ。

一旦世外ノ思ヲ発シ、家ヲ葛飾阿武ニ遷ス、

芭蕉庵桃青 伊賀人松尾甚七郎、初風羅坊、

元禄中歿年五十三 ノ隣壁ナリ、

二人ノ者、志シ同ジク、先師季吟ノ教ヲ奉シテ諸藩ニ講シテ、

正風体ノ俳諧ヲ世ニ行ハントシ、

更ニ名素堂 堂又作道同 実ニ天和年間ノ事ナリ。

 

元禄八乙亥歳 素堂年五十四帰郷シテ拜父母墓

旦謁櫻井政能 前年甲戊政能擢為代官触頭在府中 

政能見素堂喜ヒ抑留シテ語及濁河事 

嘆息シテ云、

濁河ハ府下汚流ノ所聚頻年笛吹河瀬高ニナリ、

下水道壅カル故ヲ以テ濁河ノ水、

山梨中郡ニ濡滞シテ不行、本州諸河漂‐流砂石其瀬年々高シ 

民苦溢决至今尚爾為国ノ病實ニ甚シ 山川部ニ委シ、

被水禍者十村就中、

蓬澤、西高橋二村最曵地ニシテ田畠多ク沼淵トナリ。

當此時村人捕魚鬻四方換食、蓬澤ノ鮒魚名于州ト云。

雨降レハ釣釜重床田苗腐敗シテ収穫毎ニ十之二三ニ不及、

前ニ歿居者数十戸、既ニ新善光寺ノ山下ニ移レリ。

餘民今猶堪ヘザラントス。

政能屢々之ヲ上ニ聞スレドモ、言未ダ聴カレズ、

夫為郡観民患乃救之コト不能ヤ、吾辨テ去ント欲ス。然

ドモ一謁閣下自陳事由决可否ヘシ、

望ミ請フ、足下姑ク此ニ絆サレテ補助アランコトヲ。

素堂答テ云、

人者コレ天地ノ役物ナリ観可則進ム、

素ヨリ其分ノミ、況ヤ復父母ノ国ナリ、

友人桃青モ前ニ小石川水道の為メニ盡力セシ事アリキ、

僕謹テ承諾セリ、

令公宜専旃ト政能大ニ喜テ晨ニ命駕十村ノ民庶啼泣シテ送其行、

政能顧謂之云、吾所思アリ、到江戸直訴ントス、

事不就トキハ見汝輩コト今日ニ限ルヘシ、

構ヘテ官兵衛ガ指揮ニ従ヒ相乘乖クコトナカレ云々。

素堂ハ薙髪ノマゝ挟双刀、再称山口官兵衛、

幾程ナク政能帯許状江戸ヨリ還ル。村民の歓知ヌベシ、

官兵衛又計算ニ精シケレハ、自是夙ニ勤役夫濁河ヲ濬治ス、

自高橋至落合築堤二千百有餘間導キテ笛吹河ノ下流ニ會セ注ク、

明歳丙子月日落成ス、

悪水忽チ流通シ沼淵涸レ稼穡蕃茂シテ民窮患ヲ免ル、

以前奔他者皆奮居ニ復シ修祖考墓コトヲ得タリ。

於是生祠ヲ蓬澤村南庄塚ト云所ニ建テ、

称櫻井明神併山口霊神、歳時ノ祭祀至今無怠聊報洪恩ト云、

 

宮本武蔵 の祖先は甲斐 『甲斐国志』巻之百二 士庶の部 文化十二年

宮本武蔵 甲斐国志』巻之百二 士庶の部 文化十二年

 

〈読み下し〉

 

本州(甲斐)ノ士、宮本源内忠秀ト云ウ者ノ後ナリト云ウ。

 

武蔵ハ剣術ヲ以テ栄名ヲ施セリ。

甞テ江戸ニ在リテ、豊洲(大分)小倉ニ招カレ小笠原将監忠貞ニ仕エル。

 

『武将感状記』ニ云ウ、

始メ細川越中守忠利ニ仕エタ。

小倉ニ赴ク時、長州下関ニ於イテ岸流ト云ウ

撃剣堪能ノ士ニ出会イ、互イニソノ術ヲ誇リ、

仕合シテ遂ニ岸流(佐々木小次郎)ヲ打チ殺セシ由ヲ載ス。

武蔵ハ両刀ヲ用イ、

長二尺五寸(75.76cm)、

短壹尺八寸(54.5cm)ナリ。

 

世ニ武蔵流ト称ス。

 

本州素ヨリ剣客多シ、一ノ宮佐太夫照信ハ「一ノ宮流」ト云ウ。

榎下六左衛門森清ハ大石和筋ニ記ス。

弦間八兵衛正吉ハ弓術ニ師ナリ。中郡筋ニ記セリ。

皆一流を興シタリ。西村丹波守忠次、一ノ井六兵衛至政、

共に慶長・元和・寛永頃ノ人ナリ。鉄砲ノ伝書ヲ蔵スル者往々見エタリ。

 

 

素道 『甲斐国志』巻之百二 士庶の部

 

素道 山口官兵衛ト云。姓ハ源名ハ信章、字ハ子晋、

一云公商。其先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス。

因為氏後移居府中魚町、家頗ル富ミ、時人山口殿ト称ス。

信章ハ寛永十九年壬午五月五日生ル。故ニ重五郎ヲ童名トス、

長シテ市右衛門と更ム、蓋シ家名ナリ。

自少小四方ノ志アリ。

屡々江戸ニ往還シテ、受章句於林春斎、亦遊‐歴京都学、

書於持明院家、和歌於清水谷家,

連歌ハ再昌法印北村季吟ヲ師トス。

松尾宗房ト同門ナリ。

茶ハ今日庵宗旦ノ門人ナリ。

俳諧ヲ好ミテ宗因 号梅翁大阪人 

信徳伊藤氏京都人等ヲ友トシ仮ニ来雪ト號ㇲ。

亦號今日庵蓋宗丹所授カ。

遂ニ弟ニ家産ヲ譲リ、使襲称市右衛門自改名官兵衛、

時ニ甲府殿ノ御代官櫻井孫兵衛政能ト云者能ク其能ヲ知リ、

頻ニ招キ為寮属居ルコト数年、

致仕シテ寓東叡山下専ラ以儒售ル、

人見友元竹洞ヲ学友トシ、諸藩ニ講ジ詩歌ヲ事トス、

傍ラ茶・香・聯俳・演劇・平家等ニ及ベリ。

一旦世外ノ思ヲ発シ、家ヲ葛飾阿武ニ遷ス、

芭蕉庵桃青 伊賀人松尾甚七郎、初風羅坊、

元禄中歿年五十三 ノ隣壁ナリ、

二人ノ者、志シ同ジク、先師季吟ノ教ヲ奉シテ諸藩ニ講シテ、

正風体ノ俳諧ヲ世ニ行ハントシ、

更ニ名素堂 堂又作道同 実ニ天和年間ノ事ナリ。

 

元禄八乙亥歳 素堂年五十四帰郷シテ拜父母墓

旦謁櫻井政能 前年甲戊政能擢為代官触頭在府中 

政能見素堂喜ヒ抑留シテ語及濁河事 

嘆息シテ云、

濁河ハ府下汚流ノ所聚頻年笛吹河瀬高ニナリ、

下水道壅カル故ヲ以テ濁河ノ水、

山梨中郡ニ濡滞シテ不行、本州諸河漂‐流砂石其瀬年々高シ 

民苦溢决至今尚爾為国ノ病實ニ甚シ 山川部ニ委シ、

被水禍者十村就中、

蓬澤、西高橋二村最曵地ニシテ田畠多ク沼淵トナリ。

當此時村人捕魚鬻四方換食、蓬澤ノ鮒魚名于州ト云。

雨降レハ釣釜重床田苗腐敗シテ収穫毎ニ十之二三ニ不及、

前ニ歿居者数十戸、既ニ新善光寺ノ山下ニ移レリ。

餘民今猶堪ヘザラントス。

政能屢々之ヲ上ニ聞スレドモ、言未ダ聴カレズ、

夫為郡観民患乃救之コト不能ヤ、吾辨テ去ント欲ス。然

ドモ一謁閣下自陳事由决可否ヘシ、

望ミ請フ、足下姑ク此ニ絆サレテ補助アランコトヲ。

素堂答テ云、

人者コレ天地ノ役物ナリ観可則進ム、

素ヨリ其分ノミ、況ヤ復父母ノ国ナリ、

友人桃青モ前ニ小石川水道の為メニ盡力セシ事アリキ、

僕謹テ承諾セリ、

令公宜専旃ト政能大ニ喜テ晨ニ命駕十村ノ民庶啼泣シテ送其行、

政能顧謂之云、吾所思アリ、到江戸直訴ントス、

事不就トキハ見汝輩コト今日ニ限ルヘシ、

構ヘテ官兵衛ガ指揮ニ従ヒ相乘乖クコトナカレ云々。

素堂ハ薙髪ノマゝ挟双刀、再称山口官兵衛、

幾程ナク政能帯許状江戸ヨリ還ル。村民の歓知ヌベシ、

官兵衛又計算ニ精シケレハ、自是夙ニ勤役夫濁河ヲ濬治ス、

自高橋至落合築堤二千百有餘間導キテ笛吹河ノ下流ニ會セ注ク、

明歳丙子月日落成ス、

悪水忽チ流通シ沼淵涸レ稼穡蕃茂シテ民窮患ヲ免ル、

以前奔他者皆奮居ニ復シ修祖考墓コトヲ得タリ。

於是生祠ヲ蓬澤村南庄塚ト云所ニ建テ、

称櫻井明神併山口霊神、歳時ノ祭祀至今無怠聊報洪恩ト云、

 

馬場美濃守信房公 馬場美濃守信房生涯年譜

馬場美濃守信房公
馬場美濃守信房生涯年譜

<記録に残る馬場姓を名乗る武将・馬場美濃守信房との関係は未詳>

 長禄 四年(1460 )
● 馬場参州(法名 臨阿)死す。『一蓮寺過去帳』<馬場美濃守との関係は不詳>
 文明 年間(1469~86)
● 馬場民部(法名、浄阿)死す。『一蓮寺過去帳』<馬場美濃守との関係は不詳>
 永正十一年(1514)1歳   

馬場美濃守信房の尊称
 俗名…氏勝・玄蕃・民部権大輔政光・信房・信春・景政などと称されているが、諸文献からは「信房」が正しい。「信春」は甲陽軍艦以来の名前で後世の歴史学者・紹介書により「信春」と紹介される。「信春」は信房の息子の名前。以下この書は「信房」とする。

馬場美濃守信房の家系・尊称『寛政重修諸家譜』☆ 清和源氏義光流(新羅三郎義光)武田氏流。
頼光
…源三位頼政
…下野守仲政(初めて馬場氏を称す)
…其の裔が甲斐教来石に移り在し地名を持って家号とし、武田家に仕え、駿河守信明の時、武田信重の婿となり馬場氏に改める。
…其の男遠江守信保
…其の男美濃守信房にいたって武田一族につらなり花菱の紋を受けるという。
遠江守信保-甲斐国武川谷大賀原(現在の台ケ原)根小屋に住む。
○ 信保が長男を美濃守信房(はじめ民部氏勝とし、武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家 名を継ぎ云々)

馬場美濃守信房の家系・尊称『寛政重修諸家譜』☆ 清和源氏義光流武田支流巻一八四
 武田五郎信光
…五男、一条六郎信長
…二男、四郎頼長(初めて馬場氏を称す) 
…小四郎長広
…二男権三郎(民部)広政(玄蕃・民部・敬礼師)
…権太郎(民部)政次
…権太郎(民部)政久
…権太郎(民部)
…政長
…権太輔(民部)政房
…権太輔(民部)政忠
…権太輔(玄蕃・民部)
…房政
…信房(馬場氏を称す)

馬場美濃守信房の家系・尊称☆ 『姓氏家系大辞典』

清和源氏ノ後裔甲斐国教来石ニ移リ教来石(敬禅寺)氏ヲ称ス。
駿河守信明ノ時、武田信重ノ婿トナリ馬場氏ニ改ム。信房ハ初名景政マタ氏勝、民少輔ト称ス。ソノ族馬場虎貞、武田信虎ヲ諫メテ殺サル。

馬場美濃守信房の家系・尊称☆『植松正邦氏家系書』
十一代馬場但馬守重信
…十二代馬場修理克信忠
…十三代馬場虎房
十四代馬場伊豆守虎貞(常光院殿日心城公庵主 大永六年/1526)
…十五代馬場丹後   守五郎左衛門信忠

馬場美濃守信房の家系・尊称◎下部町の馬場家の家系
○下部町の馬場家の家系には馬場美濃守信房が無く、丹後守五郎左衛門に繋がる。
 常葉次郎の父として常葉(馬場)孫三郎豊信がいる。…『馬場家系図』詳細は別述する 
○ 其祖ハ清和天皇裔丹後守忠次ト称スル者建武ノ乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東の奥に隠住す。武田氏に仕へ地名を取り馬場姓とす。妙園寺(実在)ヲ開基シ黒印ヲ五石ヲ寄付ス、清和天皇ヲ祀リ、後相州鎌倉八幡宮氏神ニ祀リ之始祖也。…『馬場家系図
 ○ 信房…伊豆守虎貞武田信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ屡直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。馬場系血是ニ於テ絶エントス。…『馬場家系図
 ○ 秋山太郎光朝の三男常葉次郎光季…十一代後裔常葉彦之條丞馬場伊豆守虎貞の嫡男…馬場丹後守信忠(常葉彦之丞の名跡継ぐ)次男…馬場美濃守信房(常葉次郎□□)
 而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継ク馬場美濃守信房ト称ス。云々…『馬場家系図
【筆註】
 常葉家は下部町に実在した。常葉家は現在は存在しないが馬場家の家系に編入された事も考えられる。

馬場美濃守信房公の生涯と時代背景◇永正年間
 永正十二年 1515    2歳 
武田信虎、大井信達に攻められ敗れる。
 永正十三年 1516    3歳 
○富士吉田地方は武田、今川争奪戦となる。
 永正十四年 1517    4歳 
○武田軍、吉田城を攻略。氏親、連歌師宗長を通じて和を信虎に請う。
 永正十五年 1518    5歳 
○不詳。
 永正十六年 1519    6歳
○信虎、甲府躑躅崎に武田館の着工をする。
 信虎、要害城を造る。積翠寺(武田信玄誕生地)
永正十七年 1520    7歳 
○信虎、甲府要害城の工事に着手する。

馬場美濃守信房公の生涯と時代背景◇大永年間 
 大永  元年 1521    8歳 
武田晴信(信玄)、信虎嫡男として甲府積翠寺の要害城に生まれる。
大永  二年 1522    9歳 
武田信虎、富士山に登る。
 大永  三年 1523   10歳 
武田信虎信濃善光寺に参詣する。
 大永  四年 1524   11歳 
武田信虎上杉憲房と対峙。一条小山に一蓮寺造営工事開始。
 大永  五年 1525   12歳 
□諏訪、金刺昌春が信虎を頼り、甲府に住居を与えられる。
 ◎平賀城
平賀武蔵守源義信遠孫平賀成頼者□力絶倫強将也其力対七十余人云、
(中略)大永年中於甲州韮崎大戦、未決勝負、其時甲将馬場虎貞・板垣信方二勇士合戦云々。…『千曲之真砂』
 大永  六年 1526   13歳
 
◎甲斐下部町常葉、馬場伊豆守虎貞、八月十五日逝去  法号 常幸院殿日心城公庵主 …『馬場家系図
□将軍足利義晴、信虎を上洛させようと諏訪上社大祝に対して信虎と和するよう命ずる。…『歴史読本』「信玄の生涯」
○信虎富士北麓加古坂の梨の木平で氏綱軍に大勝。…『歴史読本』「信玄の生涯」
 大永 七年 1527   14歳 
武田信虎今川氏輝と和睦。…『歴史読本』「信玄の生涯」

馬場美濃守信房の事績・武田家消息◇享禄年間

 享禄  元年 1528   15歳 
武田信虎、諏訪上社の頼満父子と会戦、神戸・境川で合戦。敗れる。

【馬場外記・小淵沢
 享禄  二年 1529   16歳 
◎小淵澤村高福寺の再開基、馬場下記。…『高福寺過去帳・由来書』
 この馬場外記と信房との関係は未詳。

 享禄  三年 1530   17歳 
□郡内の小山田信有が北条氏綱と戦い破れる。
武州川越城主上杉朝興、上杉憲房の後室を奪い武田信虎に側室として贈る。

 享禄  四年 1531  18歳 
◎馬場美濃守信房の初陣(教来石民部)…『甲陽軍艦』
○甲斐の国人栗原兵庫・飯富虎昌・今井尾張守ら信虎に叛いて援軍を諏訪頼満に要請。信虎、河原部現在の韮崎市内)まで追撃してこれを破る。…『歴史読本

 
馬場美濃守信房の事績・武田家消息◇天文年間
天文 元年 1532   19歳 
○信虎、今井信元を破る。甲斐国を平定する。『歴史読本』「信玄の生涯」

天文  二年 1533   20歳 
○府中武田館が焼失する。…『歴史読本』「信玄の生涯」
◎馬場伊豆守、武田信虎の暴政を直諫、信虎怒り所領を没収し殺害する  …『馬場家系図

天文 三年 1534   21歳 
○晴信の室、上杉氏、妊娠するも葉母子とも死す。

【馬場美濃守文書】天文三年(1534)
◎来る十五日自信州時田出陣處其方共江先陣申付條可得其意書入也 信玄花押(?)
   朱印 天文三年 馬場美濃守

 天文  四年 1535   22歳 
○信虎、都留郡山中で北条・今川連合軍に敗れる。諏訪氏と和睦。

 天文  五年 1536   23歳 
○信玄(武田太郎)、元服して将軍義晴の偏諱を受けて晴信と名乗る。
信濃佐久郡の戦いに晴信初陣。晴信十六歳。信房二十四歳。 

 天文  六年 1537   24歳 
○信虎の息女、甲斐今川同盟の為に今川義元のもとに嫁ぐ。

【馬場美濃守の城地(白州町台ケ原横山)】
 ◎(年不詳)当院古跡者台ケ原村分字横山与申処ニ住居仕候由、其頃武田家臣馬場美濃守城地ニ相成皆地被下置白須村江引移り候由旧地に鎮守与申伝石祠等有云々。『寺院明細書上帳』「文殊院」本山修験二十四ケ院組

 天文  七年 1538   25歳 
○武田、北条の和議成立。  

【馬場美濃守文書】
◎此度於小荒間合戦之砌村上氏之一族井上備中之守之首討捕候段神妙之働依る之二十貫文加増候處如件
天文七年三月二十七日 跡部大炊介 馬場美濃守殿  …『馬場家系図

  天文  八年 1539   26歳 
○晴信十九歳。嫡男太郎(義信)生誕。

  天文  九年 1540   27歳 
○信虎、板垣に命じて信州佐久の数十城を陥とし、前山城を築く。

 天文 十年 1541  28歳
【馬場美濃守の妻】天文 十年(1541)
◎馬場美濃守、妻を娶る。一ノ宮木工介朝俊ノ娘…『興禅寺』埋葬する …『馬場家系図
長野県信州新町興禅寺(牧之嶋城の上方)興禅寺境内 馬場美濃守顕彰碑

天文  十年 1541   28歳 
武田信虎が信玄により甲斐を追放される。  …『歴史読本

 天文十一年 1542  29歳 
◎馬場美濃守、馬場信保の跡目と成り馬場を名乗る。…『武林名誉禄』

  天文十二年 1543   30歳 
○武田館類焼して、晴信高白斎の屋敷に移る。
○信虎の息女(諏訪頼重の妻)死去する。
○信虎京都を遊覧する。

 天文十三年 1544   31歳 
○信玄信州伊那福与城を陥す。

 天文十四年 1545   32歳 
○信州、竜崎城陥落す。
箕輪城陥落す。
○信玄、今川義元北条氏康を和議させる。…「信玄の生涯」

【教来石民部から馬場民部少輔へ】天文十四年(1545)32歳
◎信玄、武河衆教来石民抜擢、五十騎の士隊将とし馬場氏と改め民部少輔と称する。

 天文十五年 1546   33歳
武田勝頼誕生。  …『甲陽軍艦』

 天文十六年 1547   34歳 
○信玄、甲州法度之次第二十六条本を公布する。

 天文十七年 1548   35歳 
○信玄、信州小県郡にて村上義清と戦い敗れる。

 天文十八年 1549   36歳 
◎七月二十三日、信玄深志城を収め、馬場民部信房を置く。

【馬場民部少輔高白(高白斎)ヨリ御奏者ニ相定】天文十八年(1549)36歳
◎十一月、二十三日馬場民部少輔高白(高白斎)ヨリ御奏者ニ相定候トテ五十疋持参太刀進候。…『高白斎記』

 天文十九年 1550   37歳
【馬場民部、深志城代となる】天文十九年(1550)37歳…『広瀬広一氏、武田信玄伝』
松本城(深志城、現在の松本城の資料には武田関与記事は少ない)                            
◎馬場民部其歳卅八歳、甘利左衛門尉十八歳、此両人侍大将の中に武篇仕りすぐれたり。『甲陽軍艦』「品第三十」
○信玄、信州村井にて小笠原長時を破る.(長時、村上氏を頼る)
○信玄、小笠原長時を筑摩郡に攻め破る。
○信玄、小県郡砥石城を攻め敗れる。

 天文二十年 1551  38歳 
○信玄信濃の府中を攻める。
○信玄、除髪する。
馬場信房村上義清と野々宮に戦う。…『小笠原歴代記』
真田幸隆砥石城を陥落す。
○信玄、小笠原長時の属城刈谷原城を落とす。
○信玄、小笠原長時の属城平瀬城を落とす。

 天文二一年 1552  39歳 
□六月六日。教来石又七郎、土屋名跡に立てられる。…『高白斎記』
【註】この記録は馬場民部の後裔と教来石家の繋がりがないことが推察される。
今川義元の長女晴信の嫡男太郎に嫁ぐ。

 天文二二年 1553   40歳 
○晴信の嫡男太郎、将軍足利義輝より偏諱を受けて武田義信と名乗る。
○信玄、小笠原長時を桔梗ケ原に破る。
○第一回川中島合戦。

 天文二三年 1554   41歳 
○八月に信玄の嫡男信義、佐久郡に攻め入る諸城を落とす。
甲州法度之次第五十五カ条、追加二条をつくる。

馬場美濃守信房の事績・武田家消息◇弘治年間
 弘治  元年 1555  42歳 
○第二回川中島合戦。
◎今度信州牧島居城処ニ越兵剛敵難攻寄清野高畑迄其方筑摩川前当子心勝微妙備ヲ以テ□々ト扣仍テ不寄附敵一身働ニ今乍初吉事無二之戦忠感悦至候恐々
◎天文廿三年甲寅五月十八日  武田信玄(花押) 馬場美濃守信房殿 …『馬場家系図
【註】
牧之嶋城三日月堀入り口近くの枇杷神社甲州流の三日月堀が現在も息づいている。枇杷神社は牧之島城または枇杷城と呼ばれている。

弘治    二年 1556   43歳 
○信玄、信濃伊那郡を後略する。
真田幸隆、埴原郡尼飾城を後略する。

弘治  三年 1557   44歳 
○甲越両軍、安曇郡小谷で対戦する。
○信玄と長尾景虎水内郡で激戦。
○第三回川中島合戦。

【馬場美濃守信房関連文書】

諏訪郡の茅野氏、これまでの軍功を晴信に書上げる。
  天文十一年以降。葛尾(植科郡)御本意、
然處ニ石川某外所々逆心故、
八幡峠(更級郡)御人数入之時、
涯分返馬相抃候此証人者
馬場美濃守殿具御披露候故、
典厩様為使於苅屋原御陣所ニ
三度御褒美條々被仰下様共候事 …『甲州古文書』

馬場美濃守信房の事績・武田家消息◇永禄年間 
 永禄  元年 1558  45歳 
◎永禄中白須刑部少輔義政、馬場信房と力を合わせ今之地に遷し宮社悉く造営に及び云々。
  …「白州町白須・若宮八幡神社記」
○武田軍、長尾景虎の兵と信州塩尻にて対戦。
武田信虎、京都で万里路惟房に会う。
信濃善光寺の本尊阿弥陀如来甲府に遷す。
◎馬場美濃守、甲府善光寺の縄張りか。(一説には山本勘助との説もある)

永禄  二年 1559  46歳 

◎(信房)永禄二年騎馬を七十騎加え百貮十騎。小幡弥三右衛門・金丸弥左衛門・早川弥三左衛門・平林藤右衛門・鳴牧伊勢守・鵄(とび)大貮是皆驍勇の□将なり。…『甲斐国志』「巻之九十六人物第五」
◎(年不詳)九月十三日      
 信玄署判  馬場美濃守 従越中進状…『歴代古案』
○信玄の法名が初めて禁制文書に現れる。

 永禄 三年 1560 47歳 
◎五月、川中島の合戦馬場信房は妻女山撃退攻撃隊に加わる。
権大納言菊亭晴季武田信虎の娘を娶る。
○信玄、諏訪上社の再興をする。
今川義元桶狭間にて織田信長に破れる。
勝沼五郎信元、謀叛のかどにより成敗される。

 永禄 四年 1561   48歳 
◎信玄、三千百十七の首帳を持って其日申刻に勝どきを執行給ふ。
御太刀は馬場民部「助」。-永禄四年九月十日…
長尾景虎小田原城を攻める、信玄の軍勢、北条氏康を赴援する。
長尾景虎、関東へ出兵し、相模を侵す。北条氏照信玄救援。

○第四回川中島合戦。
●死者、越軍…三千四百人。甲軍…四千五百人。
【馬場美濃守関連文書】
◎今度信州川中島出陣之處其方一身之走廻を以被遂本意神妙之至也彌々可抽忠勤本国八幡郷永十貫文従先祖之為舊地永ク令加増條不可有相違違仍如件  朱印 永禄四年信玄花押
辛酉九月    馬場美濃守奉之窪田助之丞殿…『東山梨郡史蹟』

永禄  五年 1562   49歳
恵林寺の快川、信玄に書状を寄せ、第四回川中島の勝利を祝す。
○信玄の四男勝頼、諏訪頼重の家跡を継ぎ諏訪四郎勝頼となり信州高遠城主。

 永禄  六年 1563   50歳
○吾妻の岩櫃城が落城して、吾妻以西はほぼ武田信玄支配下になる。
○武田軍、倉賀野城を攻める。

  永禄 七年 1564 51歳   
◎御神像 一体木造 現牧丘町黒戸奈神社  永禄七年馬場美濃守奉納  …『牧丘町誌』
○武田軍、野尻城を後略する。
○第五回川中島合戦(対戦のみ合戦はなし) 

 永禄  八年 1565   52歳 
○信玄の嫡男義信、幽閉される。
○武田軍、上野倉賀野城を陥す。

【馬場美濃守信房となる】
 永禄 九年 1566  53歳 
足軽大将原美濃守の死後、馬場信房が美濃守と称し、武田晴信の一字を与え馬場美濃守信房とぞ改められける。      …『甲陽軍艦』「伝解本」
◎信玄、馬場美濃守を召し信州まきの島に普請の儀仰せ付け、即ち城代に仰せ付け被候。…『武家時紀』
 ○信玄、比叡山の大僧正に任ぜられる。                  
【牧之嶋城】              
◎まきの島の城主馬場美濃守興禅寺大檀越となる。

 永禄 十年 1567  54歳 
◎信玄、越後・信州の境目のお仕置あそばせ、
馬場美濃守にお仰付け被、
あたらしく要害とり立てらるべき云々       
 …『甲陽軍艦』「品第卅」
◎敬白起請文之事、永禄十年八月七日。
 金丸平八郎殿 馬場美濃守信房

永禄   十年 1567  54歳 
武田義信謀叛事件により信玄武田家の武将にたいして信州下之郷諏訪神社前で改めて忠誠を誓わせる。…『生島足島神社
○信玄の嫡男義信、憂悶のうちに自刃して果てる。享年三十歳。

 永禄十一年 1568    55歳 
甲府善光寺の金堂の材木が不足、八幡の天神宮に要請。
○十二月信玄、駿河攻略を志して軍勢を出す。

 永禄十二年 1569   56歳 
○信玄、小田原攻め、信房の松田屋敷攻めに信玄御悦喜成被候成り…『甲陽軍艦』「品第卅五」
○信玄、四月北条氏康駿河薩□峠に戦い破れ甲府に帰陣す。
○六月、信玄駿河大宮城を陥す。
○九月、西上野の武蔵鉢形城を攻める。
○十一月、信玄駿河・相模の諸城を攻め落とす。深沢城・新庄城・湯沢城・足柄城・山中城など。
駿河原城を攻める。

 元亀  元年 1570   57歳 
○信玄、九月伊豆韮山にて北条氏政と退陣。
徳川家康信玄と絶縁し越後の上杉輝虎と同盟を結ぶ。

 元亀  二年 1571  58歳 
【古宮城縄張りは馬場美濃守信房】
◎信玄、作手の奥平氏を監視するために、その居城亀山城の近くに古宮城を築き、この城の縄張りは馬場美濃守信房であった。
○勝頼、信玄の帷幕に入る。
駿河深沢城を攻める。
○四月信玄、勝頼三河に入り足助城を陥す。
○勝頼前面に登場する。
三河の浅ケ谷城・阿摺城・大沼城・田代城・八桑城を陥す。
○信玄 五月西上の準備を進める。
○六月、勝頼信玄に替わり総軍の指揮をとる。
□甲相同盟復活する。

 元亀  三年 1572   59歳 
○信玄、十一月下旬遠江の二俣城を攻め落とす。
○十二月十二日、三方ケ原の戦い。
◎信玄、美濃国岩村を攻める。馬場美濃雑兵共に八百余人をもってかかるを見て、信長引きちらし(中略)信長岐阜へ逃げこまるる也。…『甲陽軍艦』「品第卅九」
○信玄、十月西上の途に上る。遠州只来城・飯田城陥。
○信玄、遠江三方ケ原にて徳川家康軍と織田信長の援軍を破る。

 天正  元年1573   60歳 
◎信玄、三方ケ原の戦功を上げた馬場丹後守忠次に加恩の地十貫文を与える。…『馬場八郎兵衛文書』
○信玄、二月菅沼定盈の野田城三河野田城を陥す
武田信玄、逝去。 四月十二日。          
武田勝頼、家康の長篠攻めに、三河遠州に兵を出す。馬場美濃守は救援軍を出す。信房は煙の色を見て徳川の攻略に乗らず。

【馬場美濃守信房の采地「白州台ケ原荒尾神社記」】
天正中馬場美濃守信房の采地地之節寄田モ有之奉文並平鈴等納ラレ候平鈴今不詳。…「白州台ケ原荒尾神社記」
武田信玄の遺体、信州駒場(こまんば)の長岳寺にて馬場美濃守・原備前高坂弾正・下条伊豆守により火葬する。
馬場美濃守の供養塔や御持宝刀 あり。
●信玄遺言により「三年秘喪」遺言「家督」「戦力」「領地の整備」に及ぶ。

 天正  二年 1573   61歳 
○九月、勝頼本願寺に対して父信玄の隠居と勝頼の家督相続を披露する。 
本願寺、信玄に対する隠居祝い、勝頼の家督相続祝いを贈る。

【馬場美濃守信房、逝去。】
天正 三年(1574)五月二十一日 62歳 
 天正  三年 1574  62歳 
●馬場美濃守信房、逝去。
長篠の戦い。武田勢一万五千は長篠城を包囲し、馬場信房は、城に一番近い大通寺山に陣取る。
○戦いは武田勢の不利で信房は武田勝頼を退却させ殿(しんがり)戦をつとめ、勝頼の姿が寒狭川の左岸に消えるのを見届けて、猿橋付近 より引き返し、織田信長方に首を授け、六十二歳の最期を閉じた。

 天正  四年 1575          
●勝頼、四月十六日父信玄の葬礼を恵林寺にて執行する。

 
馬場美濃守信房公・末裔消息

○馬場美濃守信房公衛・末裔消息「白州台ケ原田中神社馬場八幡社記」
 美濃守信房ノ鎮守ナリ。
采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。
園中手裁ノ桜同松今朽。
信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某齎シ来リテ居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬サシトソ申伝候。
社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪)

○馬場美濃守信房公・末裔消息
巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』
再開基 武田信玄之将士
 馬場美濃守、法号 
乾叟自元大居士ニ御座候…『甲斐  寺記・神社記』

○馬場美濃守信房公・末裔消息『馬場彦左衛門家記』
馬場美濃守ノ孫同民部ノ男丑之介壬午ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村ニ移居シテ與三兵衛ト更ム。
 
○馬場美濃守信房公・末裔消息『馬場祖三郎家由緒書』
開基  馬場美濃守源公  法号 乾叟自元居士 
公七世外孫出家  得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書 
信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅后胤
馬場美濃守源公諱信房 始称敬禮師民部少輔  
諱政光天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。
役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。
従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原)墓石朱地或云、
武川之白須村於自元寺
以佛古又祭法号如前面矣聞
自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎
其壊於家而仰鎭護也。
柳營幕下小臣居武州豊嶋郡大塚公
五世胤馬場喜八郎義長 旧名義教 拜自 

【筆註】
これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。

○馬場美濃守信房公・末裔消息『馬場祖三郎家由緒書』
【自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる】(棟札)

◎『自元寺由緒書』末尾
 享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余自元寺住職恵光代。
  馬場美濃守信房号 乾叟自元居士 
 『自元寺過去帳』    馬場民部少輔信忠 号 信翁乾忠居士 
 『自元寺過去帳』    馬場民部少輔信義

○馬場美濃守信房公・末裔消息『参州長篠戦記』
 長篠の戦いの戦死者…馬場彦五郎勝行(馬場美濃守の叔父)

○馬場美濃守信房公・末裔消息『甲府市史』     
五月二十一日三州長篠討死(馬場)伊豆(守)二子馬場美濃守信房 六十二歳。

    
各地に残る馬場美濃守の法名 
○ 高野山位牌 
 甲州府中馬場美濃守大□ノ為ニ小田切又三郎建立之 
 天正三年乙亥五月廿一日死去 天正四年丙子十月十八日

○甲斐甲府の馬場信寿可家系書に馬場美濃守の子に信翁乾忠居士 霊位
 信忠の法名 長男…信忠-信次(丑之助)甲府平瀬の太寧寺の再開基をした人物。
 甲府古籠屋小路馬場美濃内方逆修ニ 明窓理園大姉 寿位
 天正四年丙子十月十八日 小田切又三郎建立之
信興…信房の孫、長篠で討死、法号 乾叟自元

○小田切氏消息
 末男…昌松(小田切又三郎)又三郎は祖父の小田切下野守家を相続する。『馬場信寿家家系書』  
【註】
 小田切氏は馬場彦左衛門の家系にも見える。『寛政重修諸家譜』によれば氏勝(信房)の妻は小田切下野守某が女で、氏勝の子昌松(まさしげ)は外祖小田切下野守某が家を継ぐとある。「信翁乾忠居士」は信忠の法名   

山梨県北巨摩郡白州町白須自元寺位牌   甲斐国志 乾叟自元居士 
家臣原四郎承遺言携遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓石塔立来

甲府市平瀬  太寧寺 火災に遇い現在は『過去帳』『寺記』などは無い   
『甲斐寺 記・神社記』
  乾叟自元大居士   追諡  

○長野県上水内郡信州新町興禅寺位牌 
○愛知県南設楽郡鳳来町医王寺位牌 
  天正鑑公大禅定門  追諡 

○長野県上水内郡信州新町興禅寺過去帳  追諡か 
  神峯院殿馬山遠場大居士   追諡  

山梨県塩山市恵林寺墓碑 
 山梨県北巨摩郡高根町植松正邦家墓碑  
  秀體院傑山雄大居士    追諡 

静岡市北安東 馬場清家系図  
  英忠院殿天雄智伯居士    追諡 

山梨県北巨摩郡武川村万休院牌子 
  万松院殿岳塔円大居士    追諡 

甲府市朝気町馬場信寿家系図  
  信翁乾忠居士 信房の子、信忠の法名 

○長野県中野市壁田馬場宗家墓碑 
  大祥院殿賢誉源信義住大居士  追諡 
○愛知県設楽町田口福田寺位牌  
  龍嶽院殿大法寿山大居士   追諡  

 
武田家・馬場家関連記事
 天正   四年    1575       
○勝頼署判 九月六日 軍条目(陣屋武具等)馬場民部少輔同心 宛
○信房の子民部少輔信春 牧ノ島城主。天正十年迄(?)…『馬場家系書』

 天正   五年   1576       
○勝頼、一月二十二日北条氏政の妹を娶る。

 天正   六年   1577       
○勝頼、北条氏政の要請で信越国境に武田信豊を派遣。

 天正   七年   1578       
上杉景虎、自害する。
 天正   八年   1579       
○勝頼、三月駿河浮島ケ原にて北条氏政と戦う。

 天正   九年   1580       
○勝頼、真田昌幸に命じ、韮崎片山新府城を築城、移城。

 天正   十年   1581      
●馬場美濃守信忠、三月於信州深志城にて討ち死に…『馬場信寿家書』
 小田切氏が信翁乾忠居士の法名高野山に納めたのは天正四年の事? 
武田勝頼、甲斐田野にて自刃す。武田時代信虎・晴信・勝頼三代終わる。

 天正  十一年   1582     
●信房ノ奥方一ノ宮木工朝俊女天正十年卒。信州牧之嶋興禅寺 年五十三歳。

 文禄   元年   1591      
○馬場民部信久駿河守死す。甲州武川谷大河原根護(小)屋の城に居住。
【筆者注】
 馬場美濃守の生涯年譜を作成して見たが、正確さには自信がない。それは『家系書』…『馬場家系図』の信憑性に欠けるからであるが、馬場美濃の家臣団は南巨摩や東山梨郡に多い。今後の調査のヒントになる。
 馬場丹後守忠次は甲斐下部町常葉の馬場家の家系に見え、江戸前期には馬場八左衛門の名が見える。

参考 馬場美濃守虎胤について(詳細は不詳)    
甲陽武田信玄公より谷村御領主代々御郡代 馬場美濃守虎胤 (信房の可能性もある) 甲陽武田勝頼
郡代 馬場美濃守虎胤…『河口湖畔 船津今昔物語』より引用。
【筆者註】
馬場美濃守虎胤については全く不詳である。
武田時代に於いて甲斐の郡内地方の郡代を勤めていたと思われるが、伊東堅吉氏著の『河口湖畔船津今昔物語』の引用元
が知りたいところである。虎胤の名は勇将であった原美濃 守虎胤がいるが他には見えない。
 馬場美濃守の築城と縄張りについては東京都武蔵野金谷山大法禅寺の開創三百五十五年記念誌に掲載があるが、現在の長野や静岡を今後とも調査して見る必要がある.
  
馬場美濃守の築城と縄張り
槙之嶋城(長野)
小山城(遠江
江尻城(駿河
田中城(駿河

馬場美濃守のこと『菅原村(白州町の旧村名)のあゆみ』
○名所旧跡の項 馬場氏の居跡 (これは、白須家のこと)
 白須西方の広野に馬場美濃守信房の宅跡がある。郷社若宮八幡神社の南方で東西凡そ二丁余南北二丁。今は全部田畑となっているが四周に掘り跡があり、猶邸内に一條の濠を通した跡がある。邸園の跡とおぼしき辺に梨の老木があってその地名を「梨の木」と呼んで居る。古色蒼然たる石祠の屋根石が「梨の木」の有ったと云う藪陰に在る。その南方に一條の低地が在る、そこより高橋の清水と称する冷水が湧き出し自然の谷をなしている。その谷の南方一帯の地を大庭と云う。馬場の跡らしくも思える。その南殿町部落より竹宇に通じる右直に沿いたる地に門が有ったと見え、今に礎石が存して有る。
 この居跡の北方丘陵の上に姫塚と称する塚がある。里人は信房の墓と称すれども疑わしい。盖しその縁辺の人の墳墓ならん。この丘陵の地は自元寺の故地なると称し現に同寺の所有である。

若宮八幡神社 姫塚(織田信長)『菅原村(白州町の旧村名)のあゆみ』
「姫塚」は若宮八幡神社の左方に現在もあり、遺骨については織田信長の娘との説もあり、姫塚は現在の前沢(かっては門前町と呼ばれた)の北原の地に墳墓があり、ここを「姫塚」と呼び墳墓を整備したがその後この場所には作物が育たなかったと云う話もある。また北原の墳墓からは装飾品が出てきたが今は一部を残して不詳との事である。
 又若宮八幡神社の周辺は現在の国道が通る事となり、その時には多くの五輪の塔が地下に埋められたとも伝わるが、一部は好事家の手にあったが後禍を恐れて戻したとも伝わる。 
 

郷社 白須若宮八幡神社と馬場美濃守信房
 所在地 白須字南坊田一五九八番地
 祭神   仁徳天皇神□皇后・応仁天王
 由緒  
社体に因り光厳院北朝 の御宇に(1331~33)勧請したとあるけれども創立の年代は明らかではない。「甲斐国志」 
黒印三石三斗、社地一千坪除地、神主屋敷四畝二十歩。武田氏世々尊敬浅からず、
永禄年中(1558~1569)馬場美濃守信房「宮原」より今の地に遷し、
白須刑部少輔政義、神主石田菅蔵と心を合わせ修造す。

 と載せてある。前記黒印状は徳川氏より領した様に社記にあるけれども、これは誤りで恐らくは馬場氏・白須氏等の寄進でありとの事である。

馬場美濃守信房公・末裔消息 馬場氏の系譜
寛政重修諸家譜』に清和源氏義光流武田支流とあり、
『姓氏家系大辞典』(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。
前書によれば、次郎兵衛信周がとき罪ありて家たゆ、庶流吉之助通喬(馬場氏の庶流で信州下ノ郷生島足島神社武田将士起請文六河衆の列に見ゆ)が呈譜に、□祖下野守仲政(按ずるに仲政は源三位頼政が父にて頼光の流たり)はじめて馬場と号す。 
其の蕎甲斐教来石にうつり在し、地名をもって家号とし代々武田家につかえ、
駿河守信明のとき、武田信重の婿となり馬場にあらたむ。
その男遠江守信保、其男美濃守信房にいたり武田の一族につらたり花菱の紋を受くという。

寛政重修諸家譜』の説明によると、遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原根小屋(台ケ原)の城に住すとあり、
美濃守信房については
「通喬が呈譜に信保が長男を美濃守信房、はじめ民部氏勝とし、武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴任し、はじめ信濃国高遠、後に同国槙嶋の城に住す、三百騎の士をあづかり士大将に列し、武田一族につらなり花菱の紋をうく、天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。
法名乾忠、甲斐国恵林寺に葬る」と記している。
信保の二男(信房の弟)善兵衛、はじめ隼人信頼とし、兄信房が家嫡となり、後故ありて甲斐国を退去し和泉国淡輸(たんのわ)に蟄居す、
その男を信久なりという、根小屋城(台ケ原か)に住す、慶長十五年十月死、年八十、法名浄心

遠江守信保
・信房(美濃守信春)
・昌房(信春)『武田三代軍記』に見ゆる馬場民部少輔か
・信頼(善五兵衛)
・信久
・信成(武川衆十二騎に見ゆ。信成か

馬場美濃守信房公・末裔消息『寛政重修諸家譜』信成(民部右衛門尉)
信成(民部右衛門尉)については次のように記している。武田勝頼に仕え根小屋に住す。
天正十年勝頼没落ののち東照宮甲斐国にいらせたまふ時、武川の諸士とともに御塵下に属し、北条氏直若神子に出張するとき相謀りて小沼の小屋を攻おとし、のち新府に渡御ありて北条氏と御対陣のときしばしば軍功を励みしにより、諸士とおなじく本領の地をたまひ、
天正十二年小牧陣のときも亦ともに信濃国勝馬の砦をまもり、のちまた尾張国一宮城を守衛す、
天正十三年九月真田昌幸が居城を攻めらるるときは、大久保七郎右衛門忠世が手に属し、また人質として妻子を駿河国
国寺に献ぜしかば、諸士一紙の御書をたまはり、
天正十八年正月二十七日釆地をくはへられ、この年小田原陣に供奉し、八月関東御入国のとき甲斐国の釆地を武蔵国鉢形のうちにうつされ、番をゆるされて釆地に住す。
天正十九年九戸一撰のときも忠世に属し岩手沢にいたる。
◇慶長五年台徳院殿
(秀忠)に附属せられ、大久保相模守忠隣が手にありて信濃国上田城を攻め、
天正十九年三月二日武蔵国のうちに新恩の地百石を賜い、
天正十五年十月死す。年八十、法名浄繁。

馬場美濃守信房公・末裔消息『寛政重修諸家譜』信正(次郎兵衛・八郎左衛門)
その子信正は次郎兵衛(また八郎左衛門)といい家忠・家光に仕え下総国宮川村に百六十俵の釆地を賜う。
信正
信政(廷宝~元禄)
信通(元禄~享保)
信周(享保~宝暦)
信方(宝暦)
以上は寛政重修家譜による説明であるが、次にによってこれを見ることにする。

馬場美濃守信房公・末裔消息『姓代家系大辞典』
信房
清和源氏の後奮甲甲斐国教来石に移りて教来石(敬禅寺)氏を称す、
駿河守信明に至り武田信重の婿とたり馬場に改む。
・その男遠江守信保、
・其の男美濃守信房なり。
信房は初名景政また氏勝、民部少輔と称す。
・その族馬場虎貞武田信虎を諌めて殺される。
・信玄に至りその後無きを隣み氏勝に遺跡を襲がしめ、
信の字を賜いて美濃守信房と名乗らしめ、又信春と云ひ、後に信勝という。
信濃国更級郡牧野島城は一に牧島城とも云う、牧野島邑(牧郷村)にあり、
・永禄五年八月廿八日、信玄、馬場民部景政に築かしめ百五十騎にて守らしむ。 
三河国設楽郡市場村 古官城は馬場氏の縄張、
遠江国榛原郡諏訪原城天正元年秋築く馬場美濃守の縄張也と、
その他多し。
天正三年五月二十一日長篠役に戦死す。

美濃守信房の子 信春
その子民部信春は一に昌房と称す、
天正の初めより深志城(松本城)を守り、
天正十年三月織田の兵に攻められ甲斐に帰りて死せし如し。
・一族江戸幕臣となり、寛政系譜此の流五家を収む。家紋割菱。

美濃守の二男 善五兵衛信頼(隼人)
二男善五兵衛信頼(隼人)信房の嗣とたり、
・甲斐を去り和泉因淡輸に住す。

美濃守二男 善五兵衛信頼の子
その子が駿河信久也、又巨摩、山梨、八代の諸郡に住し、
甲府朝気村の馬場氏は美濃守後蕎と称す。

馬場美濃守信房公・末裔消息『甲斐国志』「士庶の部」

甲斐国志』士庶の部に
・馬場美濃守ノ孫同民都ノ末男丑之介壬午ノ乱ヲ避ケ其ノ母ト倶ニ北山筋平瀬村二匿ル、
・後朝気村二移居シテ与三兵衛ト更ム、其ノ男四郎右衛門、
・其ノ男善兵衛元禄中ノ人、今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ

甲斐国志』の記述 馬場半左衛門
・馬場半左衛門ナル者アリ、
・後ニ幕府ニ仕へ尾州義直郷ニ附属セラル、
・彼ガ先祖(木曾義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村又讃岐守ト称ス、
・家村ノ三男ヲ常陸介家景ト云フ、始メ馬場ヲ以テ氏ト為ス、
・数世ニシテ半左衛門ニ至ルト云フ、
・本州ノ馬場氏モ蓋シ是ト同祖ナラソヤ、其ノ系中絶シテ未ダ詳ナラズ」


と記し、次の清和源氏木曾系図をかかげているが、このことについては詳かたらずといている。
兵庫頭家教-讃岐守家村(太郎)1常陸介家景(六郎、馬場の元祖)
-越中守家佐(木曾ヲ馬場ニ改ム)。
また国志人物の部馬場美濃守信春の項にも「三代記二云フ馬場伊豆守
虎貞ナル老直諌シテ信虎ノ薮スル所ト為ル、嗣ナク晴信教来石民部景政
ヲ立チ馬場氏之杷ヲ紹シム云六、虎貞ノ事未ダ明拠ヲ知ラズ、教来石ハ
武河筋ノ村名ナリ、彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレバ時ノ人之ヲ称シテ氏族
ト為ス」とあり、また馬場民部少輔については「美濃守ノ男ナリ…天正
壬午ノ時信州深志ノ城ヲ衛ル、三国志二信春二作ル、一書二氏員又信頼
ニモ作ル、或ハ云信頼ハ信房ノ甥ナリ戦死ノ後家督セリト、皆明カニ