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北杜市の偉人 輿石守郷 長坂町、後に甲府愛宕町へ 

輿石守郷 長坂町、後に甲府愛宕町

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輿石守郷の墓

天保八年二月大八田に山本甚五左衛門の二男として生まれる。建岡神社神官輿石森吉に子供がなかったので養子になる。幼時は亀之助と呼ばれていたが、守郷と改め又「岡廼舎」と号した。堀秀成、落合直澄について国学、短歌を学ぶ。明治八年国幣中社一の宮浅間神社の主典となり、十八年禰宜に任じ、後甲府市大田町の稲積神社の神官並びに山梨神道分局長、皇典講究所山梨所長その他の要職につき、三十九年大教正となる。三十三年山梨裁縫学校(現湯田高等学校)設立の際には推されて校長となり同校の発展に尽力した。

 守郷は日本の古典研究および本県短歌の隆盛に貢献する。

国文学の諸論文や短歌、俳句を掲載した雑誌『えびかづら』を明治二十六年二月十五日刊行した。創刊号には冒頭に「えびかづら発行のゆゑよし」と題して雑誌名の由来、刊行の意義を述べている。
  此ふみをしも、えびかづらとなづけしは、べちによしあるにはあらず、此かづらの実は、わが山梨岡になり
出て、あらゆる菓のうちにしては、世にたぐひなきことは人も知り、我もしりたるものなれば、其をかり
て、斯くなづけしなり(中略)さて基本を知らんには、皇国の、古き伝への書どもによらざれば、知りかた
く、其書どもを明らめには、又古き言語をおぼへざれば、とき分ることかたし、(中略)其本末をあやまた
ず、いそのかみ、古きことばをたずね、古き伝へを明らめて、敷島の、やまとみくにの国柄の、なりたちを
正し究め、言霊の幸ほふ国、言霊のたくする国のうまし名の、空しからざることを、えびかづら、ながきよ
に伝へましと、いそしみつかふるわざになむ
 と日本の古典、言語の必要性を説き、日本成立の基本的な事を研究しなければならないと主張している。
「ときあかし」の部では『古今和歌集』の読解をしているなど古典の研究をしており、雑誌の後半には当時
の多くの人々の短歌、俳句を載せ、山梨の抒情文芸の創作の奨励に努めている。山梨の短歌隆盛の一端は彼に負うところ多かったと思われる。
以後『えびかづら』は毎月十五日に刊行されており、内藤耻里、落合直文、堀秀成、木村正辞、萩野由之ら当時の代表的国文学者が寄稿している。なおこの雑誌の規定は次のように定められていた。
 第一 本誌ハ皇典講究分所ノ機関トシテ発免シ国語国文ヲ研究スルヲ目的トス
 第二 本誌ハ甲府市大田町皇典講究分所内雑誌部ニ於テ発行ス
 第三 本誌ハ毎月三十日ヲ以テ発行シ天下公衆ニ向ヒ広ク発売頒布ス
 第四 本誌定価一冊金拾銭前金ナラザレバ発送セズ
 第五 本誌ハ壱カ年以上購読ヲ約スルモノヲ以テ賛成者トス」但シ賛成者ハ壱ケ年分金壱円ヲ前金ニ払込ムモ
ノトス、郵便切手代用ハ五厘切手ニテ壱割増ノ事
 第六 賛成者ハ此道ニ属スル諸種ノ論説考証随筆作文和歌俳句等其他投稿スル事ヲ得
 第七 賛成者ハ質問或ハ作文和歌俳句等ノ添削ヲ乞フ事ヲ得」但シ往復トモ郵便税ハ自弁タルベシ
 第八 月次兼題ノ和歌及俳句等ノ出詠ハ前月二十日限り遅着ノ分ハ次回ニ登載スト錐モ余白アルニ非レバ掲載
ヲ見合ス「アルベシ
 第九 本誌広告料ハ一行二十字詰ニシテ金五銭
 第拾 本誌ハ前項ノ旨趣ヲ以テ発免スルモノクレバ普通営利的雑誌ノ如ク賛成員ニ対シ賛成金ノ外義損金募集
等ハ一切ナサヾルヘシ

 守郷は短歌の創作において優れていた。

彼の短歌のすべては大正三年
十月塚原等により刊行された『岡廼舎(を加乃舎)』歌集に納められている。歌数は新年の部一一首、春の部一〇一首、夏の部六七首、秋の部八四首、冬の部三八首、恋の部二七首、雑の部一二二首、詠史の部四七首、総歌数四九七首が載せられている。
     新年
  いまに猶をさな心のうせにして年のはじめは嬉しかりけり
     立春
  不尽の山嶺の高嶺のみ雪霞むなりあまつみ空に春やたつらむ
     早春川
  不尽川のこほり流れて下るめり甲斐の国原はるやたつらむ
     春夜
  はるもやゝ寝られぬ頃となりにけりかをれる梅に朧月夜に
     首夏鷺
  咲のこる花もかあると分来れば青葉隠れにうぐいすのなく
     首夏藤
  夏山のみどりのなかの藤の花ひとりゆるしの色にほへり
     行路卯花
  うたいつゝ静かにゆかん卯の花の雪の山路は寒けくもなし
     水辺納涼
  夕すゞみいづこはあれど水鳥の賀茂の川辺は殊さらにして
     立秋
  ふる雨の青も昨日にかはるなり雲井よりこそ秋は立つらし
     轟中霧
  うつゝにも夢にも人の見えぬかな霧の中ゆくうつの山みち
     鐘声送秋
  紅葉ちる尾上のかねの声ごとに秋もすくなく成にけるかな
     暮秋鳥
  くれてゆく秋の末野のくぬぎ原蒔き日影に小からなくなり
     初冬月
  風さわぐ萩の枯葉を照る月のかげもやつれて冬はきにけり
     野時雨、
  定めなく降るや嵯峨野の村時雨浮世のさがもかゝるべしとか
    杜寒革
 もみぢ葉ほさそひ尽して木枯の森の下草あらはれにけり
     聞恋
 山川の音にはきけといつまでかあふせをなみに恋渡るらむ
     寝覚恋
 長からぬ春のひと夜をいくたびか寝覚て人の恋しかるらむ
     夏恋
 夏びきの手引の糸の打はへてみだれかちなる恋もするかな
     雲
 朝たちて夕べにかへる山のはの雲にも道はありげなりけり
     女生徒
 二葉よりみさを正しく見ゆるなりまなびの庭にならぶ姫松
     源義経
 さき出て世にこそ匂へ谷ふかきくらまの山のちござくら花
     辞世
  うきをのみかぞえてなにかなげくらむたのしと思へば楽しかる世を
 
守郷の短歌は自然、人事の両方について詠んでいる。自然の歌は移り行く自然を詳細、的確にとらえ、その自然美への感動を素直に表現している。全体的の分量からいえば自然を詠んだものが多く良い歌が多いが、人事の面においても恋の歌を初めとして人心の微妙さを良くとらえている。なお歴史上の人物を詠んでいるなど特殊な歌もある。守郷の短歌は誠実な心情を素直に述べたものであるといえる。
明治四十四年八月十二日葬、七五歳であった。