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山梨県出身 鎮目奉行の石搭(佐渡相川町下相川にある。)

甲斐ゆかりの人 佐渡奉行 鎮目市左衛門惟明

 

前経歴  大番組頭

佐渡奉行 51歳 在籍 9年刊 元和4年(1618)寛永4年(1627)

後の経歴  佐渡で60歳急に死亡

 

「寛敬重修諸家譜」 第二百三十清和源氏 義光流

 

 「祖先は、助之進惟利がときに家絶えたという。佐渡奉行惟明(これあき)の祖父、父惟実(これざね)は、武田信虎、信玄、勝頼につかえ、しばしば戦功があり、武田家没落の後、甲斐国に百姓をして住んでいたという。

 佐渡奉行惟明(これあきら)は、天正10年(1582)徳川家康甲斐国に入ったと初めて拝謁する。このとき、父惟真老年により、惟明(これあら)が代って仕えることを願い出、召されて小性として仕えた。

15歳。文禄元年(1592)徳川秀忠に附属せられ、慶長5年(1600)真田昌幸が籠れる信濃国上田城攻めのとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬充康成が手に属し、苅田の事を奉行し、城近くになったとき、城中より向ってきた軽兵を惟明及び小野次郎右衛門忠明、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、中山勘解由照守、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣政七人鎗をあわせ、太田甚四郎吉正鎗脇にて敵を射、城中に追い入れる。世にこれを上田の七本鎗と称する。 

後惟明等軍令を犯したことを咎められて、上野国吾妻に蟄居させられる。

慶長6年赦免あり。7月15日旧領を賜い、慶長7年加増され、すべて千五百石を知行し、大番の組頭をつとめる。大阪両度の陣には使番となり表彰される。

 元和3年(1617)佐渡の代官となり、

寛永2年(1625)加増され、12月11日武蔵国多摩、比企、児玉、下総国印旛、上総国武射、山邊、近江国高嶋七郷に、すべて二千五百石を賜る御朱印を下さる。

寛永4年(1627)7月14日佐渡国にて60歳で死亡。法名宗清。妻は内田全阿彊正次が女。(「寛政重修諸家譜」)」

 その後、125年以上の年月経過後に、長男惟吉(これよし)の8代跡継惟成(これしげ)、次男惟忠(これただ)の8代跡継喜一(よしかず)等が柏青の雑太郡の網源寺に葬ったとしていが、このとき佐渡から遺骨を移したと思われる。

 なお、佐渡奉行惟明(これあきら)の直系跡目は、三男の惟重が継ぎ、惟重に子がなく、四男惟正の子惟利を養子にしたが寛永18年(1641)惟利か跡目を認められずに家は絶えている。

佐渡奉行惟明(これ肩6)から三代後にして家絶えたことになる。しかし、長男惟吉、次男惟忠が分家旗本として家をおこしており、代々繁栄している。

佐渡奉行惟明(これあ16)の母は、武田24将の一人である侍大将・甘利備前守虎泰(あまりぴぜんのかみとよやす)の娘であり、武田家没落後、身を隠し、百姓をしていたが、武田家での鎮目家は高い身分であったことになる。特に、大久保石見守長安と比較するときに長安は猿楽の出身であり、蔵前衆であった。それが徳川家では、長安は老中、大名であり、23歳若く働き盛りの佐渡奉行惟明は40代にして、かなりの競争心があったと思われる。

 佐渡奉行は、長安家臣田辺奉行の4年間の残務継続、間宮、安藤奉行の物的・人的長安実績排除の1年間を経て、長安没後の5年後に、長安と同郷の武田出身、佐渡奉行惟明の誕生になるのである。

 惟明は、武士としての経歴はあるが、金山運営者又は財政運営者としての経歴は見られない。

 「佐渡相川の歴史」では、大番頭出身としているが、大番頭または大番組頭とは将軍・徳川家の身辺警護であって、文禄元年(1592)からあり、文禄は5組で、元和元年(1632)に10組、寛永9年(1632)に12組に組織化されており、大番頭一人に、4人の大番組頭と大番衆50人、与力10騎と同心20人がついたという。

 また、大番頭は五千石級の旗本または大名か任命されたという。

   

 佐渡における惟明(これあ6)は、名奉行として期間、実績ともに長安没後の実質的佐渡奉行といえる。

 間宮、安藤が徳川の意向を知らしめ、長安実績を排除し、長安と同郷の武田出身、鎮目奉行を起用することにより、佐渡金山の向上を画策した徳川家の陰謀が見えるようである。

 

  鎮目奉行の石搭(佐渡相川町下相川にある。)