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運命の一戦 川中島の戦い 信玄41歳

運命の一戦 川中島の戦い 信玄41

運命の一戦 川中島の戦い 信玄41歳

 

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川中島の戦い 馬場

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馬場美濃守


永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》
●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。
※三月、長尾景虎信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。
※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、
この日足利義氏擁立を約する。
●4月十一日、武田軍、北条氏康支援のため碓氷峠を越え上野松井田に進む。ついで借宿近辺に放火する。
●四月十七日、武田信玄、市川右馬助ら一族に、上野南牧の戦功により蔵入地佐久郡瀬戸などを宛行う。
●八月二十四日、信玄、上杉政虎が越後・信濃勢を率い善光寺に出陣する報により、信濃など分国諸将を率い川中島に着陣する。

☆第四回川中島合戦☆
●九月十日、上杉政虎武田信玄軍、川中島で激戦し、死傷者多数を出す。政虎自ら太刀打ちし、信玄の弟信繁(典厩)ら討ち死にする。【長野】
●今度於信州川中嶋、輝虎及一戦之刻、小宮山新五左衛門尉被囲大勢之処、其方助合若党数輩被疵、剰彼敵三人討捕之、無比類働尤神妙也、弥可致忠戦之状如件。
 永禄四年九月十日 晴信判
  河野但馬守との【甲府/御庫本古文書纂】《信憑性?》

●今十日巳刻、与越後輝虎於川中嶋合戦之砌、頸七討捕之、其方以走廻被遂御本意候、弥可忠信者者也、仍如件。
 永禄四年九月十日 信玄(花押影)
  松本兵部殿【甲府/益子家文書】《信憑性》

上杉政虎が小田原へ出征していた際、信玄は佐久軍へ出陣して、政虎の後方退路をおびやかした。越後へ帰着した政虎は八月十四日、川中島に向かって出陣した。九月十日早朝、両軍は川中島の八幡原で対戦した。これを第四回の川中島合戦といい、最大の激戦であった。前半は上杉方、後半は武田方が有利な展開をした。

※【甲府/『大田家文書』】
今度信州表に於いて、晴信に対し一戦を遂げ、大利を得られ、八千余討ち捕られ候こと、珍重の大慶に候。期せざる儀に候と雖も、自身太刀討に及ばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候。よって太刀一腰・馬一疋(黒毛)差し越し候。はたまた当表のこと、氏康松山口に致って今に張陣せしめ候、それに就いて雑節ども候。万一出馬遅延に於いては、大切たるべきことども候間、油断なく急度今般越山あるべく候。手前可火急に申し廻り候条、かくの如くに候。早々待ち入り候。なほ西洞院左兵衛督申すべく候条詳らかにする能はず候。恐々謹言。
 十月五日   前久(花押)
  上杉殿

永禄四年 1561【長野】
●十月卅日、信玄、山城清水寺成就院に伊那郡面木郷を寄進し、高井郡市川城・水内郡野尻城攻略のうえさらに寄進を約する。このころ飯山・野尻両城付近を除き、武田軍がほぼ信濃を制圧する。
●十一月二日、信玄、北条氏康赴援に出兵するにあたり、佐久郡松原神社に戦勝を祈る。ついで出陣する。
●十一月十三日、武田信玄、上野甘楽郡に入り、つきで国峰城を攻略する。

●十一月廿日、信玄、四郎勝頼の元服式の祝儀を諸方へ送る。
甲府/栃木県採集古文書】
●十一月廿五日、信玄、上野国一宮に高札を与える。【甲府/大坪家文書】
●十一月廿七日、上杉政虎、古河城近衛前久(さきひさ)救援に関東出陣、この日武田信玄と呼応する北条氏康と武蔵生山(なまのやま)で戦う。
●十一月廿八日、信玄、小畑氏に松山城攻めの感状を与える。【甲府.諸家家蔵文書】

永禄四年 1561【長野】
●十二月廿三日、武田信玄小県郡長窪・大門両宿に、信玄竜朱印状によらず伝馬を出すことを禁じる。

☆第四回川中島合戦☆(吉田豊氏訳・『甲陽軍艦』)

【訳】永禄四年辛西八月十六日、信州川中島から甲府に伝令が来て申しあげるには、上杉輝虎が出動して、海津の向かい、西条山に陣をとり、ぜひとも海津城を攻め落とそうとしている。その兵力は一万三千ほどとのことであった。
 そこで信玄公は、同月十八日、甲府を出発されて、同月二十四日に川中島へお着きになった。そして、謙信の陣営である西条山のこちら側、雨の宮の渡しを占拠し、そこに陣をはられた。このため謙信の側では、越後への退路を断たれ、あたかも袋にとじこめられたようになったと心配したが、謙信は少しも心配する様子はなかった。
 こうして信玄公は、五日間、その場所に陣をはられ、六日目の二十九日に、広瀬の渡しを越して海津の城におはいりになった。しかし謙信は、家老の意見も聞かず、それまでとおり西条山におられる。
 ここで、信玄公に対し飯富兵部が、ここぞという決戦をなさいますようにと、おすすめ申しあげた。また信玄公は馬場民部助を召されてご相談になったところ、馬場も決戦をなさるようにと申しあげる。
 信玄公は「当家の武勇すぐれた侍大将たちのうち、小幡山城はこの六月に病死、原美濃もこの夏、信州わりか嶽城攻めにおいて、十三カ所の負傷で、まだその傷が治らぬため、今何は召し連れなかった」と仰せられて、山本勘助を召され、馬場民部助と相談の上、明日の合戦の配備を定めよと仰せつけられた。
 山本勘助はそこで、
「二万の兵力のうち、一万二千を謙信が陣をかまえる西条山に向けて、明日の卯の刻(午前五時ごろ)から合戦を始めれば、越後勢はやがて、勝っても、負けても、川を越えて引揚げるでありましょうから、そこを御旗本組、第二陣の部隊によって前後からはさみ討ちにして、討ちとめなさるように」と申しあげた。それによって、高坂弾正、飯富兵部少輔、馬場民部、小山田備中、甘利左衛門尉、真田一徳斎、相木、芹山下野、郡内の小山田弥三郎、小幡尾張守、この十隊は西条山に向かって卯の刻から合戦を始める。一方、御旗本組としては、中央に飯富三郎兵衛、左に典厩信繁殿、穴山信吉殿、右は内藤修理、諸角豊後の各隊。
 御旗本組脇備として、左に原隼人、逍遥軒信廉殿、右に太郎義信殿二十四歳、望月の各隊。御旗本組後備として跡部大炊助、今福善九郎、浅利式部丞の各隊、以上十二隊、御旗本とともに八千の兵力が、今夜の七つ寅の刻(午前三時ごろ)に出発して広瀬の渡しを越して陣を布き、敵が川を越えて退くときに戦闘を始めると定められた。
 ところが謙信公は、武田勢の先鋒と旗本の部隊との炊事の煙が立つ様子を、西条山り上からご覧になり、上杉方の侍大将全員を集めて、
「十五年前、未の年の秋に、信玄二十七歳、謙信十八歳のとき、争いを始めて以来、たびたびの含戦をしてきたが、信玄の布陣にはつねに手落ちがなく、結局のところ戦場の主導権を信玄に握られて、謙信はつねに敗れたかのような有様であった。明日は合戦と思われるが、信玄の作戦としては、兵力を二手に分け、半分をこの陣に向けて合戦を始め、謙信の旗本が川を越して退こうとするところを、あと半分の兵力によって討ちとろうとの計略を立てていることが、鏡にうつるかのように察しられる。ここはひとつ、謙信もその裏をかいて、ただちに川を越えてそこで夜を明かし、日が出たならば攻めかけて合戦を始め、信玄の先鋒が駆けつけぬうちに、武田勢を切り崩し、信玄の旗本と、わが旗本とで一戦をとげ、信玄と自分とが取り組み合い、組みふせて、刺し違えるなり、またはそのときの様子で和睦するなりとしよう。いずれにせよ、明日は二つに一つの合戦ぞ」といわれた。
 輝虎は甲骨に身を同め、九月九日の亥の刻(午後九時ごろ)に西条山を出発して雨の宮の渡しを越え、対岸に移られたが、一万三千もの兵力でありながら、音も間こえなかった。これは、越後勢が、戦のときは一人に三人分ずつ、朝食を用意させておく軍律とているため、夜になって人馬の食物をつくることがなく、火を焼く色が見えなかったためである。以上。
 こうして九月十日のあけばの、信玄公は広瀬の渡しを越し、八千余の兵力で陣を布き、先鋒からの報告をお待ちになっていたが、日が昇り、霧がすっかり晴れわたると、輝虎勢が一万三千の部隊で、まことに近々と陣をしいているではないか。
 謙信は強敵、対等の兵力であってさえ危い合戦だというのに、信玄公は八千、謙信は、一万三千である。たとえ勝利できたとしても、味方には多くの討死が出るであろうと、武田方の人びとが考えたのも当然であった。
 信玄公に、信州侍の浦野という武勇すぐれた武士を召されて、斥候に出された。
 浦野は見て戻り、御前にかしこまって「輝虎は退きました」と申しあげる。信玄公は判断力にすぐれた大将であるだけに、「謙信ほどの者が、宵から川を越し、そこで夜を明かしていながら 空Lく引き取ることがあろうか。では、退き方はどのようであったか」とおききになった。
 浦野は、「謙信は、味方の陣を辻回しては前にふさがり、幾度もそのようにしながら、犀川のほうへと向かってまいりました」と申しあげる。
 信玄公はこれを聞かれて、「なんと、浦野らしくもないことを申すではないか。それは車がかりといって、いくまわり目かに、わが旗本と敵の旗本とを打ち合わせ、合戦をするための戦術である。謙信はきょうを限りと覚悟の見えた」と仰せられて、陣を立て直された。
 謙信は、甘糟近江守という剛勇の侍大将の雑兵とも千人の部隊をはるか後方に置き、二千の兵を持つ直江という侍大将に小荷駄奉行を申しつけ、白らは一万の軍勢を指揮して、柿埼という侍大将を先鋒に、第二陣に輝虎が立ち、旗を傾けて無二無三に攻めかかり、一気に合戦を始めた。
 その問に、謙信の旗本の一隊は、信玄公の備の右側にまわり、義信公の旗本五十騎、雑兵四百あまりの部隊を追い立てて、信玄公の旗本めがけて斬りかかる。
 敵味方合わせて三千六、七百の軍兵が入り乱れ、突きつ突かれつ、斬りつ斬られつ、互いに鎧の肩をつかみ合って、組み合って転ぶもの、頸を取って立ちあがるもの、その頸はわが主人のものと名乗って槍で突きふせるもの、それを見ては、またそれを斬りふせるものという有様、甲州勢も目の前の戦いにまぎれて、信玄公がどこにおられるかもわからず、また越後勢もそのとおりであった。
 このとき、萌黄色の胴肩衣を着た武者が白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺ほどの刀を抜身に持ち、信玄公が牀机の上におられるところへ、真一文字に乗りよせて、三太刀切りかかったが、その切っ先ははずれ、仁文公は軍配団扇でこれを受け止められた。あとで見たところ、団扇に八カ所の刀傷があった。
 さて、ご中間頭、二十人衆頭など二十騎は、いずれも剛勇の武者たちだったので、奮戦しながら信玄公を敵味方からわからぬように取りかこみ、近寄ろうとする者を斬り払う。そのとき、ご中間頭の原大隅が、青貝の柄のお槍をとって、月毛の鱒に乗った萌黄緞子の胴肩衣を着た武者を突いたが、突き損したため、鎧の肩をめがけて打ったところ、鎧の背をたたいたため、馬は竿立ちになって走り去っていった。 あとで聞けば、この武者こそ輝虎であったという。
 信玄公卿旗本組のうち、飯富三郎兵衛の部隊は、越後方先鋒第一陣の柿崎隊を追い崩
し、三町ほども迫撃する。穴山殿の部隊も、謙信勢の,柴田隊を四町ほと迫撃する。
信玄公はお中間頭二十人のほかは、土屋平八、直田喜兵衛ら、十七、八のお小姓たちだけを従えられて、本営の御牀机のところから少しもお立退きにならなかった。
 だが、甲州勢のそのほかの九部隊は、太郎義信公の隊をはじめすべて敗れ、千曲川の広瀬の渡しに向けて追撃されつゝ退いていった。なかでも、典厩信繁殿討死、諾角豊後守討死、旗本足軽大将の中では山本勘助道道鬼、初鹿源五郎の両人が討死、信玄公もお腕に二カ所の軽傷を負われ、太郎義信公も二カ所の負傷をされた。
 かくしての合戦は、ほとんど信玄公のお負けかと見えたところへ、西条山に向かっていた先鋒の十隊が謙信に出しぬかれ、鉄砲の音、ときの声を聞いて、われがちに千曲川を越して、越後勢の後方から攻めかかり、追撃戦を開始した。
 さすがの謙信も、和田喜兵衛という侍ただ一人をつれ、名高い放生月毛の馬をも放して、家老の乗りかえ馬に乗り、主従わずか二騎、高梨山をめざして退かれた。
 典厩殿のお頸は、ご家来の山寺という武士が敵方から奪い返し、しかもその相手を討ちとめて、典厭殿のお頸にそえて持ち帰った。諸角豊後の頸は、諸角輩下の石黒五郎兵衛と三河牢人の成瀬という武士の両人で取り返し、越後方の頸を取って戻ってきた。
 この合戦は、卯の刻に始まった前半は、ほぼ越後輝虎方の勝利、巳の刻に始まった後半は信玄公のご勝利であった。越後勢を討ち取った数は雑兵ともに三千百十七、その頸帳をしたためて、同日申の刻(午後三時ごろ)にかちどきをちげられた。お太刀持ちは馬場民部助、弓矢取りは信州侍の諸賀であった。
永禄四年辛西九日十日、信州川中島合戦とはこのことである。
 この合戦以後、輝虎は信州に侵攻しなくなった。すでに諏訪頼重、伊奈の人びと、木曽義康は降参、深志の小笠原長時と葛尾の村上義清に輝虎が加わって年々の戦いがあったのだが、合わせて二十四年にして、ようやく信州は平定された。
信玄公の合戦ぶりは、信州の諸勢との戦いによって巧妙,になられたのである。以上。
(後略)(品第三十二)