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甲州の和算家 窪田幸左衛門

甲州和算家 窪田幸左衛門

山梨県 弦間耕一氏著 一部加筆

 

窪田幸左衛門は、純粋な和算家ではないが、測量技術に卓越していた。特に、随道、掘り抜きなどの技術は最も得意とするところで、甲州全域に及んでいる。

 この幸左衛門の業績をどうしたことか、広瀬広一氏が見落しているのが不思議でならない。広瀬氏は、昭和十年に『山梨県上本建築史』を刊行しているが、その中で幸左衛門に触れていない。

 甲斐の条理制の基線を明らかにするなど、深い学識をもって郷土史に大きな足跡を残している広瀬氏だけに、不可解である。

 甲斐の土木事業を歴史に眺めてみるとき、第一にあげることのできるのは、河川氾濫による湖沼状態を呈した盆地の水を富士川に流下させることであった。この事業に取り組んだのが安曇族であった。信濃安曇更級佐久に住み、湖河を疎通する技術をもった人達が、甲州に来て沼沢を開き湖沼を平治したと思われる。偉大な人物を神に祀る古俗によって、佐久神を祀る神社が創建された。

 古代史のなかで雄大な、前方後円墳の銚子塚、円墳の姥塚などが築造されるが巨石を動かす技術などは、驚嘆に値する。

 律令体制の中での大士木事業に、口分田を給するための条里利がある。条里の区画は、班給と耕作の便を考慮し、阡(せん)・陌(みち)・溝・洫(みぞ)・径・涂(みち)を備えていた。阡(せん)は田間を南北に通ずる道。陌(みち)は条里に縦横に設けた。径は車の通れない小路。涂(みち)は田用水路に沿った作業道。溝はやや大きな用水堰、洫(みぞ)は濯漑用の小さな水路であった。この班田収授の法は、国家の租税収入確保のための、大規模な土木事業であった。

 広瀬広一氏は、この条里区画の事業に、行基が参画したのではないかとする見解を示している。

 勧農には、治水が最大の課題であったから、律令時代においては、正税廿四万束に対して、甲斐国の堤防料として二万束を認めている。他の諸国にあっては、地溝費の支給のみで、甲斐・河内・伊賀の三国は例外であった。従って、釜無川笛吹川などの堤防修築は、他国とちがって難しい土木事業であった。戦国期に入って、富国強兵政策の中で、信玄流と称される河川土木法が出てくる。」また戦国期の躑躅(つつじ)ケ崎古城・石水寺本城・新府城、慶長初年の甲府城は、甲斐の土木史において、重要な意味を持っている。

 慶長期の富士川水運工事は、角倉了以父子によって成就するが、享保年中、河内領飯富村古屋弥次右衛門昌光が改修する。この水運も大土木本事業であった。

 近世の土木工事に、龍王・万力・近津の三堤防の保護などがあるが、濁川の改修、御手伝普請によって金川筋に勝五郎堤が築かれる。勝五郎とは、因州鳥取城主松平勝五郎が幕府で出張工事を行ったものである。

  新田開発にかかわって大岱堰、

水田五百町歩の潮流を目標にした徳島堰。

野村宗貞の楯無堰。

窪田重右衛門・宮原清右衛門の開墾した浅尾堰。

代官平岡勘三郎による龍王堰、

中村六郎右衛門が工事を司った穂坂堰。

小尾政右衛門が人夫一万五千人を用いた源太堰。

元禄・宝永に施工した黒沢堰。

 

道路関係の土木事業には、甲州街道をはじめとして鎌倉街道駿河路、信濃路等の改修工事がある。

 先にのべたように広瀬広一は山梨県土木建築史」において記述はしていないが、これ以後は、窪田幸左衛門の活躍する時代となる。

 

幸左衛門の活躍を年譜で紹介してみる。

幸左衛門 測量工事年譜

 

明和 八年 1771 上小倉村に生まれる。1才

寛政 二年 1790 浅尾新田村(現、明野町)窪田忠左衛門の妹智に。20才

文化 十年 1813 浅尾穂坂両堰の総代となる。43才

文化十三年 1813 浄居寺新穴堀抜(浅尾堰)碑あり。48才

文政 三年 1820 箕輪堰隧道工事(測量図作成)。50才

文政 六年 1823 穂坂堰三蔵地内日向穴堀廻し工事(現、韮崎市)。53才

文政 七年 1824 嘉納堰(須玉・江草村)工事。54才

文政 九年 1826  比志村(須玉町)用水路大破普請。56才

文政 九年 1826  江草村役場殿沢隧道(浅尾堰)完成。56才

文政十一年 1828 楯無堰普請。58才

文政十三年 1830 上下津金堰工事。60才

天保 二年 1831 上下津金堰工事。

天保 二年 1831 穴平村(韮崎市)用水路遠照寺堰普請。61才

天保 二年 1831 水利調査のため郡内へ出張。61才

天保 三年 1832 上手堰修理。62才

天保 四年 1834 神戸村用水路引取のため対談。63才

天保 四年 1834 都留郡川茂・小形山村水路開鑿。63才

天保 四年 1834 猪狩村の依頼で御岳新道設計測量(昇仙峡)。63才

天保 五年 1835 都留市平栗村用水路開鑿。64才

天保 六年 1836 都留市十日市場村用水路開鑿。65才

天保 九年 1838 風越穴改修(穂坂堰)。68才

天保 九年 1838 三蔵沢工事(穂坂堰)。68才

天保 九年 1838 都留郡法能・宮原・熊井戸水路開鑿。68才

天保 十年 1839 清水港向島開発願書に協力加印。69

天保十三年 1842 甲府上下水道堀渡工事着手。71才

天保十四年 1843 甲府城ニノ堀峻工事実施。72才

弘化 二年 1845 野呂川測量。74才

弘化 四年 1847 新倉堀(随道)着手。76才

弘化 四年 1847 松代藩水路大破で出張要請。76

嘉永 三年 1850 都留郡山中村用水路測量。79才

嘉永 四年 1851 幸左衛門隠居。80才

嘉永 五年 1852 新倉随道完成。81才

安政 二年 1855 幸左衛門死去 覚林院道円日実信士。84才

 

年月不明、測量工事

 

下神取堰水路付替工事

早川流入口随道計画

笹子随道設計測量

塩川沿岸堤防工事

都留郡芦垣・溥原・松山・下初狩水路開鑿

 

 年譜は、幸左衛門の五代の孫、窪田幸民の.『喜寿古稀金婚記念』所収の窪田分家先祖「窪田幸左衛門宝広履歴」から主なものを示した。

幸左衛門の施行した測量学は、元来、武田軍学の中の農法から発したもので・・・高坂禅正の創案にかかるもので、後年幾派かに分かれた。・・・禅正は測量学でも一家をなし、その基本となった三角法などでは、ピタゴラスそこのけだったといわれる。幸左衛門が学んだ測量学は、和算の大家、関新助にも負うところが多かったと伝えられる。

 

右(上)は、岩佐忠雄編著『北富士すそのものがたり』から引用した。幸左衛門の和算(測量学)の系統は、窪田家にも伝承がなく不明とされていた。岩佐氏によると、武田軍学の影響、それに関新助に負うところが多いとしているが、岩佐氏は何を根拠(出典)にしているのかを示していないのが残念である。

幸左衛門の師匠については、後述するが、実証的に追求する必要があるように思える。

 新倉穴の測量について次に紹介してみよう。

川口湖面と、赤坂の出口との高低をはかる為には、鉢伏山のてっぺんを頂点として、一方は小立村方面の湖面に船を浮かべ、一方は西丸尾の地蔵堂附近を起点として、或時は堤灯の火で、或時は、狼煙をあげて、目印とし、この三点を結ぶ角度によって山の高さを測り、落差を決定したということだ。水平機の代用としては「孟宗竹」の節間を縦二つに割り水を入れて用いたと云う。

 随道を掘るための測量方法が、ここでは具体的に記述されている。竹を利用して水平機に使用した話も興昧がひかれる。

 測量術は、町見術・規矩術(定木とコンパスを使用)などの名称がある。甲州の場合、貞享の検地では関孝知などの大学者が検地に当っているが、田地の反別を丈量することは、簡単な幾何学的の処理と若干の計算で可能であった。

 『塵劫記』には鼻紙で木の高さを測るなど、三角形に折った紙を標準にして測量することを説いている。

 さて、岩佐氏の高坂禅正・関新助の影響があったとする説は、判然としないところもあるが幸左衛門に関する貴重な記録である。

 

甲陽軍鑑』の原本といわれる『信玄全集』に、

「算勘者兵法ニ法算ト云是也 主計会三軍営塁粮食財用出入ト云云」

とか、測量に関連するものに

「郷導ト云ハ地形ノ案内者也、兵法ニ地利ト云是也、

主三軍行止形勢利害消息遠近簡易水涸山阻不失地利云也」

などがある。こうした内容がどこまで、高坂の記述によるかは定かでないが、軍鑑が高坂の記述を基につくられたとする点から、高坂はかなり測量にも通じていたと想像できる。

 

幸左衛門と関孝和を岩佐氏が、結びつけているが、孝和の没年は、宝永五(1708)で、明和八(1764)生まれの幸左衛門とは五十年以上の差がある。従って簡単に、岩佐氏の説明を肯定するわけにいかない。

 関孝和には、『規矩要明算法』という測量術の書があったというが、今は伝えられていない。孝和の門人荒木村英は『規矩元法長験』を著わし、門人に授けているので、幸左衛門に孝和の影響があったとすれば、荒木村英の著書などから感化を受けたと考えられる。

 岩佐氏が指摘している「三角法などでは、ピタゴラスそこのけだったといわれる」などは誇大な表現だと思うが、地方の測量術は、無学者の伝えたものが多く、甲陽軍鑑などの兵学の伝系との関連が、深い点は注目される。

 冒頭に、書いたが幸左衛門のことは、『山梨県土木建築史』にも、昭和四七年刊行の『山梨百科事典』にも記載がない。山梨百科事典では、幸左衛門の本家筋に当たる、窪田重右衛門を掲げている。重右衛門は、浅尾堰を開削し浅尾新田村を誕生させた人物である。新田開発の先駆者となった重右衛門は確かに偉大であるが、幸左衛門の事跡を調査した結果から考察してみるに、幸左衛門はもっと評価されてもよい。

幸左衛門の活動は、広範囲に及んでいる。その一つに天保四年(1833)の御岳新道開発への協力がある。

私共村儀山中にて年中町稼にて渡世致候村方に御座候処甲府往来嶮岨之坂道・・荒川縁下り、和田村

通り下候はば・・厚太相成候・・此度浅尾新田幸左衛門様御願道切開仕度願申上候・・

 御岳新道の開発については円右衛門の名前がよく知られているが、幸左衛門が援助している甲府上水道堀渡シに従事している(天保十三年 1842)

幸左衛門元来水利功者に付、阿部族御見出にて、通水無滞様地利を見立水源より引来り、御城北の御

郭外山手御役宅県令陣中旦市中迄も無滞通水行居候事・・・

この工事の請負は四百三十四両余で落札した。幸左衛門は、屋敷建家を質地として工事に着手している。この時の協力者は、団子新居村六郎右衛門、愛宕町常兵衛がいた。

次の年には、甲府城ニノ堀浚工事を行っている。

甲府御城外ニの御期浚御普請仕立方之儀私共両人江御請負被仰付・・御仕上げ御見分奉請一同難有仕

合に奉存候

 この御堀浚工事の共同請負者は、鏡中条村卯右衛門である。

 年月は不明であるが富士川通早川流入口の計画も行っている。

  早川通出水之度々損地出来に付き向之方に新穴堀抜早川を右之穴より抜候はば新田も多分出来・・・

 弘化四年(1847)の信州善光寺附近の地震の後の復旧工事の依頼の手紙が御普請役より届く

  信州松代領地地震の上、大出水にて・・岩流出し有之重みは多は無之恨得共いづれしやち引の石多く

人足五六給人一組召速急に参り恨事出来可申・・

 これらの文面から伺えることは、幸左衛門は、甲州きっての大土建業者で、請負の仕事が多く、信州からも人足五六拾を集めて復旧工事に当って欲しいと、要請されるのである。

 大手の請負で経済的に恵まれた幸左衛門は、測量・施工だけでなく、堀渡費用も一時的に面倒をみている。幸左衛門の業績の概要は、略年譜に示したが、次に窪田家文書を通じて述べてみよう。

 郡内平栗・薄原の水路開削の時がそれである。

・・用水路堀渡入用出金並並請仕立方共ー色世話役被下候趣添く存じ罷在候

天保六・七年(1835・36)の文書には、

・・村方入用の儀につき、貴殿方に御無心申書面の金子(拾両)借用申処実正明白に御座候・・・

当村御上納儀・・貴殿にて御引請御上納可被下候

 右にあるように、浅尾新田村に金子を貸し、年貢を引請け代官所に上納している。

 こうした経済力を背景に、村の紛争の解決にも当っている。

  年貢勘定取過ぎ・・彼是混難仕・・私気の毒に存じ・・示談行・・

   江草村・・組頭役勤方の儀に付差(糸連)れ候一件・・幸左衛門立入・・

異(意)見差加熟談内済・・

 天保二年(1831)には

   屋敷境・・双方御召出御札中の処幸左衛門立入熟談掛合行居候

 右のように政治手腕を発揮した場合もあった。名主を越え郡中総代のような役割を果している。

 

 しかし、幸左衛門が活躍することを快よく思わなかった人達もあったらしく、次の記録がある。

 

重立候村役共小前末々の百姓を申勧め流末之難渋にも不構私欲に迷ひ

操抜穴等為致幸左衛門之仕業之様に為浸食房代役を削取…

 

浅尾新田村に智入した新参者でありながら、浅尾堰・穂坂堰の総代で、重要な地位を占めるだけでなく、経済力を背景に、強力な政治力を持つ幸左衛門に反対する、旧家勢力を伺わせる内容である。

 計画ばかりで実行に移せない、相談を野呂川話と西郡ではいった。古文書によると、野呂川開発計画は、天明七年(1787)が最初であった。野呂川問題に決着をつけたのは、昭和三十五年であった。

 このむずかしい野呂川に、幸左衛門も関係した。

今般野呂川水引取組合村々用水にいたし度、

浅尾新田幸左衛門私共一同にて水道見込之場所間数高下相改め

粗絵図並間数取調帳面奉差上候以上

 これは弘化二年(1845)幸左衛門が代表で、用水開発を願い出たもので、水路の方位、高さ等を測量し、絵図面を付け、取調帳(設計書)を代宿所に提出したのである。幸左衛門の場合も、勿論野呂川話で、計画は消え去った。

 和算家の共通項の一つに俳句がある。

頂いて先味ふや初手水

水音に嶺の雪解けを聞夜るかな

        鱗々庵道載(幸左衛門の俳名)

 幸左衛門の場合、和算(測量)に卓越していたことは新倉堀抜・御岳新道・野呂川取調帳などからみることができる。従来、慈善事業の側面が強調されてきたが、それのみでなく請負で相当収益をあげていた。

 しかし、すべてが順調に進んだわけでなかった。新倉隠遁開削では落盤もあり、挫折感を強く味わうことも度々あった。新皆穴開削では、不動尊を岩壁に刻んで工事の無事を祈願した。夫婦での千ケ寺詣の実現、題目大宝搭建立(須玉町入口)の悲願など、幸左衛門の生涯は、厚い信仰心に貫ぬかれていた。

水徳の深きを存じ、高恩を報するために水神御勧請心願に御座候得共、

自力に及び難く拠処なく・・

など水徳を称へ、神徳の加護を謝する日々であった。

 天保九年(1838)に、巡見使に出した願文に、

私、本家忠佐衛門先祖重右衛門と申者・・

山谷合板難の箇所々々自力を以て堀渡し・・

新田開発に心掛け者・・

 

 系譜

 

重右衛門・・・忠左衛門妹分家――

  ――幸左衛門-茂左衛門―幸左-邦義-平民-幸文(現当主)

 幸左

 右に重右衛門との関係を示したが、幸左衛門から三代目に当たる幸左は、天保八年十月出生、慶応元年算術を勉学のために江戸に出る。明治七年、和算だけでなく洋算も学習し修業後は、三同学舎の数学教授になっている。従って和算は幸左衛門よりむしろ、幸左の方が専門的に学んで、学識が深かった。幸左は、朝神村の収入役を勤めたが五五歳で没した。

 

清翁院算値実行日珠居士 俗名 窪田幸左

真如院如算貞月日行大姉 俗名 窪田さく

 

幸左の戒名には、算値・珠。妻のさくにも算があって、珍しい。それだけでなく、幸左の墓の台石の中央に「そろばん」が彫みこまれている。こんな例は甲州でも幸左だけであろう。幸左は、幸左衛門にちなみ命名された名前である。

 窪田家の宗派は、日蓮宗でもある。もとは清普寺の壇家であったが、廃寺になってしまった。現在は、上神取の妙覚寺である。

 そろばんの彫みこまれている墓石は、浅尾新田の共同墓地にある。

 江戸の三同学舎の所在地や、和算を教授したというが教授内容等は不明である。

 

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