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遠野の伝説 遠野町誌より 山梨関係の話が載っている

遠野の伝説 遠野町誌より

 白州ふるさと文庫 一部加筆

 

 遠野郷は、太古湖水であったが、其の水が猿ケ石川となって鱒沢方面から流れ出し、北上川に合流した。此地方は自然と湖底か平地となって村落が発達した。

俗に七内八崎(ななないやさき)といわれ、水内、栃内、西内、来内、瀬内、馬木の内、佐比内の七内。

須崎、柏崎、山崎、野崎、林崎、矢崎、鶯崎、鵢(しん)崎の八時など、今地名として残っている。愛宕の鍋(なべあ)ケ坂に御器(ごき)洗場があり、古代住民は湖畔に下りて来て御器を洗ったところなども言い伝えられている。

遠野郷に伝わる伝説はほとんど、柳田国男氏の「遠野物語」に収録されており、従って遠野町における伝説も同様である。

 

遠野町の伝説 宮氏と鮭の話

 

 遠野町誌より

  白州ふるさと文庫 一部加筆

 

 遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家柄だと伝えられているが、此の家の元祖は、気仙口を越えて鮭に乗って入って来たといわれる。太古遠野の郷は一面の湖水であった頃のことである。鮭に乗って来て鶯崎の山端に住んで居た。その頃、この鶯崎に二戸、愛宕に一戸の人家があり、其の他には、湖水の周辺に、若干の穴居の民族が居たばかりであったという。

この宮という人がある日猟に出た。鹿の毛皮を着ていた。大鷲がこれを見つけて、襟首をつかみ、大空高く飛び上がって、はるか南方の、とある川岸の大木の枝に羽を休めた。その隙に短刀で鷲を剰し殺し、鷲諸共に岩の上に落ちた。其処は絶壁であって、どうすることも出来ないので、下着の級布(またぎぬ)を脱いで細く引き裂き、鷲の羽毛と祹い合わせて綱を作り、それを伝わって水際まで下りて来たが、流れが激しいので何としても渡ることができず思案していると、一群の鮭が上って来たので、其の鮭の背に乗って川を渡り、漸く家に戻りつくことができたと伝えられている。

 宮の家が鶯崎に住んで居た頃、愛宕山には倉堀家の先相が住んで居た。ある日、倉堀の方の者が、御器洗場に出て御器を洗っていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変ったことがあるに違いないと思って、早速舟を仕立てて訪れて其の危難を救った。そんなことからこの宮家では、後々まで永く鮭を決して食べなかったという。

 また裏町に、「こうあん様」というお医者様に、美しい一人の娘があった。ある夕方、軒に立って表通りを眺めていたがそのまま神隠しになって、遂に行方が知れなかった。それから数年の後のことである。此の家の勝手の流し前から一尾の鮭が跳ねこんだことがある。家ではこの鮭を神隠しの娘の化身であろうといって、以来一切鮭は食わぬことにしてあるという。

 

東野町の伝説 沼の主からもらった石臼

 

遠野町誌より

  白州ふるさと文庫 一部加筆

 

遠野の町の池の端という家の先代の主人、宮古に行っての帰りがけ、閉伊川の復帯(はただい)の淵のあたりを通うたが、其の処に若い女が立って居て一封の手紙をたのまれた。物見山の中腹に在る沼に行って手を叩けば、宛名の人が出て来る、そしたら渡して呉れと言われた。たのまれはしたものの路々心に懸って思案していたが、そのうち一人の六部に行き

逢った。その六部が、件の手紙を開いて見て、これをこのまま持って行けば、お前の身に大きい災が起こる。書替えてやろうと言って、更に別の手紙を与えた。此の手紙を持って物見山の沼に行き、教えられたように手を叩いたら、なるほど若い女が出て来て手紙を受取った。  

そして御礼にごく小さい石臼をくれた。米一粒入れて廻せば、黄金が出て来ると言う。此の宝物の力に依って其の家が裕福になったが、其の家の妻が慾張って、一度に沢山の米をつかんで入れたから、石臼はしきりに自ら廻り出して、終には、毎朝主人が此の石臼に供えた水が、小さな窪みに溜ってあった中へ滑りこんで見えなくなった。その水溜りは以後小さい池となって、家の傍にあったという。家の名を池の端と言うのもそのためだと言われる。

 

東野町の伝説 オシラサマ

 

オシラサマの由来譚は土地によって少しずつの差異があるが、遠野の町で云う話は、

 

昔、或る田舎に父と娘とが住んで居たが、この娘は馬に嫁いだ。父はこれを怒ってその馬を桑の木に繋いで殺した。

 これを知った娘は非常に嘆いた末、其の馬の皮をもって小舟を張り、その桑の木で櫂(かい)を作ってこれで小舟をこいで川を下り海に出が、後に悲しみのあげくこの小舟の中で死んでしまった。

そして或る海岸に打ち上げられたが、その皮舟と娘の亡骸とから湧き出た虫が蚕になったという。

 それからと云うものは、桑の木で姫と二体の木像を作り、それを蚕の神として祭るようになったが、これがオシラサマであると伝えている。

 

東野町の伝説 オシラサマ(二)

 

 今から四五十年前のこと,百姓をして居る遠野町の某が田を耕していると、土をあげてムクッと出ているものがある。それをそのまマ押し込んでおいて翌日行って見ると、馬の顔をした人形が出ていた。そこでそれを家へ持ち帰って外へかけておくと一晩中うなされた。

 あくる日、妻がこれを見て

「こんなものを持って来て何にするのか。祟られるのに投げたらよいのに」

と、云って叱言を云った。

 そこで人に聞いて見ると、オシラ様だという事がわかって捨てるより祀ろうという事になった。ある年のこと、持主である主人が眼を病んだが、その時この神を拝んだところがすぐ治ったと云う。

それからと云うものは主人の信仰はだんだん篤くなったが、童子がこれに逆うと祟りがあるというので、子や孫の代になって拝んで呉れないと祟るであろうからと思って手離してしったと云う。

 

 南部家の家士某が八戸から遠野に移る際、オシラサマを忘れて来たという。ところがある夜そのオシラサマが下同心の干葉伝助と云う人の夢枕にあらわれ

「俺は某の家にあったオシラサマであるが、八戸に置き去りにされてあるので早く某家に胴けて呉れ」

と、云った。翌朝、夢まだ覚めやらぬに、土間に出て見ると、八戸に置き忘れられた筈のオシラサマが自分の家の臼の上にあるのを発見した。不思議に思ったが夢の中の御告の通りこれを家士某の家に届けたと云う。

 某家ではそれ以来オシラサマを信仰し、オシラ遊びの儀式を行うようになったが、毎年干葉氏もその儀式に招かれたと伝わっている。

 

遠野町の伝説 片角様の話

 

 日蓮上人が身延山を開いた当時の話である。

山梨県身延山七面山の高座石に於て衆徒を集めて説法をしている時、その中に見目麗しい美人がいた。しかも毎回来てはその説法を聞いて居るのであった。

 遠野南部氏の祖、実長公も偶々(たまたま)その場にあって、この美人の居るのを見て遂に日蓮の心中を疑った。即ち法に事よせて、女を近づかしめることは邪道であるとして、日蓮を一刀のもとに斬りり捨てようと決意し、例の説法の席に行くとその日も彼女が出て来ていた。しかし、日蓮は実長公の心中をいち早くさとって、その美人に向って

「速かに正体を現わせ」

と、大声で叱り、側にあった花瓶の水を打ちかけると、その女は忽ち大蛇となって七面山の沼にその姿を消した。

 実長公はその時大蛇の捨て行った一木の角を家宝として伝へることにすると共にそれ以来、日蓮に私淑することがいよいよ深くなったと云うことである。

 

遠野南部家では今も片角様として尊崇して居るが、旧藩時代には毎年正月十七日に身分の低い仲間がこの片角様を奉じて、玄関から

「弥六部殿に見参せん」

と、大声で呼びながら、殿様や群臣の居る席に入って来て、家臣の悪い行為を申し上げることを例としたので、皆これを恐れて常にその行為を慎んだと云うことである。

 

片角様は長さ八寸、根の直径は一寸位で季節によって色が変ると云い伝えられて居る。

 

遠野町の伝説 南部家 家紋の濫觴

 

阿曾沼氏十四代の後を受けて当地方の領主となった遠野南部氏の祖は南北朝時代南朝に忠勤を励んだ方々で(山梨県南部町出身)、遠野に転封した領主は二十二代真義の時である。当家の家紋は宗家盛岡南部氏と共に双鶴胸九曜の紋を用いて居る。これについては次の様な云い伝えがある。

 南部氏がまだ青森県の八戸に居た頃、十代の祖光経が応永年中宗家守行を援けて秋田を攻めたことがある。ところが戦に利はなく士卒の士気もあがらなかった。光経はここに於て神の加護によるほかはなしと、月山神社に祈ること丁度七日目であった。その夜の夢の中に高僧が現われて、鶴が月山から飛んで来て舞うならば必ず勝つであろうと云った。光経はこれを不思議に思い、臣下にこれを話すと、その家来も亦同じ夢を見たと申上げた。重臣新田某がそれはまことによい夢である。きっと我が軍に勝利ありと云い、早速祝宴を張って前途を祝った。

ところが不思議にも双鶴が飛んで来て陣の上空を舞った。そして其の影を盃中に映したので、神の御告げに相異なく神の加護あらんと将士は大に喜び勇気は今迄に倍し遂に敵を破ることが出来た。守行は大いに喜び、紀念として家紋と定めたと云う。

 

(守行は丸に双鶴胸九曙。光経は双鶴胸九曜を用い現在に至って居る。)

 

遠野町の伝説 座敷童子の話

 

 遠野の旧家には「座敷わらし」と云うのが居たそうである。

 昔、六日町に某屋という宿屋があった。遠野の某屋といえば、誰しも「ああ、あの家か」と云われる程の宿屋であったと云う。

 その家の主人が或る日のこと、用事あって土蔵の戸を開いて中に入ろうとすると、小暗い土蔵の中に身の丈二尺(約、60cm)もあろうかと思われる、小さいワラシが緋の袴をつけて三四人で何かの遊びをして居た。主人は不思議に思ってそのまま土蔵の戸を閉めて帰ったという。

 その事があってからは、その宿屋の客は減少し家業は思わしくなかったということである。

 

★ 遠野南部家の家老、某家の家臣が或る夜廻りの際、御成座敷に行って見ると、その床聞に腰掛けて居る小児が居た。

 某はこれをとがめたところが床柱を伝って屋根裏に逃げて行ったと伝えて居る。

 

★ 維新の時である。いよいよ城を明渡すかも知れないと云うので、重臣達が集って協議を聞いて居ると、後の床の間に見なれない子供が居るので、「無礼者」と云って叱ると、これも又床柱を伝わって屋根裏に逃げた。このことがあってから聞もなく城明渡しの沙汰があったという。

 

遠野町の伝説 鹿子踊の起こり

 

 昔、遠野に角助と云う人があった。殿様に仕えて槍持ちをして居たが、或る年こと領主がお伊勢参りに出かけることになったので角助もお供した。

 途中駿州の掛川に着いた。そこには、たまたま大きなお祭りがありまことに賑かであった。殊に勇壮にして珍奇な踊が衆人の目を引いた。この踊こそ鹿子踊であったのである。

敵将の角助も之を見て居たが、興に乗じて帰るのを忘れ、終日見て居たので遂に領主の一行と別れてしまった。

我にかえった角助は夜になって宿を求めたが、ねむる事も出来ず、一晩中心配が続いた。

 翌朝、宿の主人に事情をうちあけて相談した。すると主人は

「あなたが今になって主人と行列に戻り追いついたとしても罪は決して軽くならないので、かえって罪せられるだけであろう。それよりはその踊を組織してあらためて御領主に事情を話して謝ったなら、或は許すこともあるであろう」

と、云ってくれた。

角助は宿の主人の教えに従って、決然意を固くし槍を宿主に托して其の翌日から踊を習い、三年有余の年月を経て故郷に帰った。そして領主に事情を話して謝った。領主も偉い方で罪を間わず、直ぐにその踊を見たいと申しわたされた。角助はよろこんで帰り村の若者を集めて数ケ月練習して殿様の前で踊ったと云う。

殿様は思いのほか喜こぼれて罪を許したばかりでなく賞品まであたえ、更に領内にひろめる様にと仰せ出たされたと云う。

それで伝承によって歌曲に多少の差はあるが、この踊りが各村に伝えられて現在に遺っているといって居る。従って別名を「角助踊」とも「掛川踊」とも呼んで居る。

 

遠野町の伝説 ごんげん様(権現様)

 

旧の正月になり、段々春が近づいてくると、ごんげん様が巡って来る。漆塗りで、黒朱金などに唐獅子の様な獅子頭である。笛、太鼓、鉦などお神楽の拍子につれて舞う。火伏せの御利益があると言われ、町の各戸ではお米、お賽銭などを供えて、悪魔を払って貰う。拍子もおもしろく門口で舞って、悪魔を組み伏せる様な勇壮なものである。

また子供が健康になり、殊に頭の病気をしないと言うので、頭を軽く噛んで貰う。子供がこわがって、やらない場合には、代りに帽子を噛んで貰う風習もある。

 

附馬牛の宿の新山神社のお祭りの日に、遠野の八幡様の神楽を奉納したことがあった。其の夜、八幡様の権現様は土地の山木という家に泊ったが、その家も、村の神楽舞の家であったので、奥の座敷の床の聞に、家附きの権現様が安置されてあって、八幡の権現様をば、その脇に並べて休ませた。其の夜、夜更けになって、何か烈しく争うような物音が奥座敷の方から聞えるので、灯りをもって行って見ると、家附きの権現様と八幡の権現様とが、上になり下になりして噛みあって居られる。そして八幡の権現様の方が、片耳を喰い切られて敗けたという。今にこの獅子頭には片耳が無いということである。

 

遠野町の伝説 石こ鍛冶

 

六日町の鍛冶職松本某という人の家に、夜になると、何処からともなくガラガラと石が降ってくる。屋根が破れて落ちて来るのかと思うて見ても、屋根は破れていない。不思議なことなので、これが評判となって、隣近所や町の人達がやって来て見る。その人達が居るうちは何も変ったことがないが、皆が帰って行くと又ガラガラと石が降ってくる。毎朝の様に石を表に運び出して、昨夜もこんなに降りましたと言うて見せる程であった。

 丁度その頃、元町の小笠原の家の赤犬が、御城下で一匹の非常に大きい狐を捕えた。尻尾が二木に分かれて、何れも半分以上も白くなっていた古狐であったという。此の狐が捕まってから、松本鍛冶屋の家に石の降ることも止んだという。

こんなことから此の家を、石こ鍛冶と呼んだ。降って落ちた石は、此の家の裏の稲荷様の祠のそばに積まれて近年まであったが、何時とはなしに散失してしまったという。

 

遠野町の伝説 二つ石の夫婦岩

 

遠野の四戸長作は(高室氏の相)、文政十一年城下町遠野の西郊に移住する前は、土淵村山口の高堂というところで農耕を営んでいた。此処に二つ石という山があって、頂上に大きい岩が二つ並んで立っている。岩と岩との間は一尋(ひとひろ)位隔っているが、その間を男と女が一緒に通っていけないと謂われている。真夜中になると、此の二つの岩が寄り合っているとも謂われている。それで土地の人は、二つ石山の夫婦岩と呼んでいる。

 

遠野町の伝説 片葉の蘆

 

 遠野の愛宕松原の西南端、愛宕山の下に、仰子酉様の祠がある。其の傍の小池には片栗の蘆が生ずる。此処は、猿ヶ石川氾濫の時は淵をなしたところだと云われている。其の淵の主に願をかけると、不思議に男女の緑が結ばれるといわれ、また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたといっている。此の淵であったと言う部分には柵を囲らして、人か入れない様にしてあった。卯子酉の祠は、一度多賀神社の境内に移されたこともあったが、今は再び元のところに遷座されている。

 

遠野町の伝説 火事と神佛の御利生

 

神様や仏様は、童子や和侮に姿を変えて顕れ、火事場で素晴らしい働きをした話が伝わっている。

 昔遠野町の六日町に火事のあった時、何処からともなしに小さい子供が出て来て、火笊(ひざる)をもって、一所懸命火を消し始め、鎮火するとまた何処か行って、見えなくなった。働き振りが目覚しかったので、あれはどこの子供だろうと噂に上った。ところが、下横丁の青柳という湯屋の板の間に小さな泥の足跡が、ぽつりぽつりとついていた。その足跡をたどって行くと、家の仏壇の前で止っており、中には小さな阿弥陀様の像が、頭から足の先まで泥にまみれ、大汗をかいて居られたと言うことである。

 叉維新の少し前の話だと言う。町の華厳院に火事が起きて半焼したことがあった。如何に力を如何にしても中々火は消えず。いまに御堂が焼落ちるかと思われる時、城から見ていると、二人の童子が樹の枝を伝って屋根に昇り、頻りに火を消しているうち、追々鎮火した。 

後で此の話を聞いて、住職が本堂に行って見ると、二つの仏像が黒く焦げていたということである。一体は不動尊で、一体は大日如来、何れも名作で、御長は二寸位の小さな像であったという

 愛宕様は火防の神様なそうで、其の氏子である遠野の下組町辺では、五六十年の間、火事というものを知らなかった。或る時某家に失火があった時、神主の大徳院の和尚さんが出て来て、手桶の水を小さい杓で汲んでかけ、町内の人達が駆け附けた時には、既に火は消えていた。翌朝になって、火元の家の者が大徳院を訪ねて、昨夜の御礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らないと言う。それで愛宕様が和尚さんに姿を変えて、助けに出て来て下さったのだと言い伝えている。

 

遠野町の伝説 御多賀の狐

 市日などに肴を買って、お多賀の下を通る人をだまして、持っている肴をよくとった。いつも此処でだまされる紋服の某、或る時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしている筈の婆さんが

「あんまり帰りが遅いから迎えに来ましたじや。どれどれ肴こよごしもせえ。おれあもって行ぐがら……」

と手を出した。そこをすかさず其の手をぐっと引きよせて、有無を言わせず、口に塩をへし込んで帰って来た。其の次に多賀の下を通ると、山の上で狐が「塩へしり、塩へし」と云ったそうである。

 又外川氏の親父は、号を仕候と云って両を描くことの上手な老人であった。毎朝散歩に出る習わしであったが、ある朝早く多賀神社の前を通ると、大きい下駄が路に落ちてあった。外川老人は、此処に悪い狐が居ることを知っているので、直ぐに「ははア……」と思った。「こんなめぐせえア下駄などはいらないが、これが大きい筆だったらなア……」と云ったら、たちまち其の下駄は筆になった。外川老人は「ああ立派な筆だ、こんな筆で絵を描いたらなア……」と云って、さっさと其処を去ったという。其の後の或る朝も叉、此処を通ると、社の前の老松が大きな筆になっていたということである。

 

遠野町の伝説 宇助河童と狐の嫁取り

 

六日町に宇助河童という男がいた。川漁が人並以上に達者なところから、河童という神名をつけられた。或る夏の夜の事である。愛宕下の川で夜釣りをしていると大漁であった。暑さが烈しいから、折角釣れた魚を腐らせてはならないと思って、傍に焚火をして魚を炙りながら釣を続けていると、不意に川の中に、蛇の目の傘をさした美しい女が現れた。宇助はこれを見てあざ笑って、何が狐のやつ、「お前などに騙されてたまるものか」と言って石を投げつけると、今度もそのまま姿を消してしまった。

いい気味だと一人で笑っていると、はるか向こうの角鼻という山の下が、ぼうっと明るくなって、沢山の提灯がぞろりと並んで、往ったり来たりした。おや、こんどはあんな方へ行っ

て、あんなまねをしている。だが珍しいものだ。あれこそ「狐の嫁取り」というものだろうと感心して見ている中に焚火にあぶっておいた肴は、一匹も残らず取られていた。おれもとうとう三度目にはすっかり騙されたと、其の後よく人に語った。

 また大慈寺の(大正の頃失火全焼)緑の下には狐が巣をくっていると言われた。綾織の敬右工門という人が、酒肴を台の上に載せて、どこかへ行くべく其処を通うたら、丁度狐どもが嫁取りをしていた。あまりの珍らしさに立って見入っていたが、やがてどうやら嫁取りも終ったらしいので、さあ行こうとして見たら、もう台の上には肴が無くなっていたとのことであった。

 

遠野町の伝説 山男にさらわれた女房

 

村兵の家では胡瓜を作らぬと言われた。昔此の家の厩別家に美しい女房がいたが、ある日表の畑へ胡瓜をとりに行ったまと行方不明になった。其の後、上郷の旗屋の縫は、六角牛山に狩猟に行き、沢辺に下りて行ってふと見ると、一人の女が、其の流れで洗濯をしていた。その女は先年突如としていなくなった厩別家の女房であったので、驚いて話しかけた。その女の話には、あの時自分は山男にさらわれて来て、此処に住んでいる。夫は至って気の優しい親切な男だが、非常に嫉妬深いので、それが苦の種である。今は気仙沼の浜に肴を買いに行って留守だが、

「あそこまでは何時でも僅か半肩程の道のりであるから、いまにも帰って来よう。決してよいことは無いから、どうぞ早く此処を立ち去って下さい。そして家に帰ったら、私はこんな山中に、無事で居るからと、両親に伝えて呉れ」

と頼んだという。それから後は此の家では。決して胡瓜は植えないそうである。

 

遠野町 波木井山 智恵寺 (日蓮宗

 

 遠野町第五地割二十九番地にあり、日蓮宗岩手県宗務所である。

 遠野南部氏の元祖波木井六部実長は日蓮に帰依して自らも日円と号し、身延山を寄進し、て久遠寺を草創せしめた由緒により、日蓮宗に於いては実長を本宗外護第一の大檀那として尊敬されている。

 建武元年、実長三世の孫師行が国司北畠顕家に従って陸奥に下った時、祖の実長の法体の像をもたらし、代々南部家に安置して崇敬して来た。これを三四代行義の時地方の日蓮宗信徒に与え、信徒等は一寺を独立してこの尊像を安置しようと企てたが、当時は新寺の創立が許されなかったので、砂場丁に法華堂を作って安置した。

 明治二十一年十月下野国安蘇郡佐野町妙音寺住職荒井養寿日忍が遠野に来り、信徒を集めて法勢大いにあがり再び建寺の議が起った。その頃上総国夷隅郡湯倉村に智恵寺と云う寺があり、寛永の初年律師玄葉の草創と伝えられ数百年を経たが、まさに廃絶せんとしていたのを遠野に移転する策を立てて請願し、明治二十二年許されて新寺を建立した。

 よって、日円の尊像を本尊の側に安置して波木井山智恵寺と称し、荒井氏はその師池上日高を推尊して氷く波木井山開山とした。

 昭和二十一年二月波木井実長六百五拾遠忌に当って、本山より「北身延」の公称を免許され、別席寺院に列せられた。同年十月には本山より管長初め南部日実師外十数師を招じて盛大な山門起工式が行われ、二十四年五月竣工、本山より管長自筆の北身延の掲額が伝達され山門にかかげられた。

 山門は・総捧造り二重屋根、楼門式仁王門で結構まことに壮麗である。

 本尊十界曼陀羅日蓮上人座像(伏見宮邦家親王第六女村雲日栄尼公より寄せられたものという)及び日蓮上人真筆の曼陀羅(建治二年九月、日蓮より南部二郎に下されしものと云われ、長一尺二寸、幅六寸)を存している。

 尚波木井公の尊像は本山の懇請により昭和二十一年本山に移転安置された。